スターリング・モスがやり残した仕事とは?ポルシェRS61と共に

Photography:Paul Harmer


 
コクピットに乗り込むと、彼はただちに操作系の確認に集中し始めた。それまでの周囲の人々を楽しませるような雰囲気はすっかり消え去り、プロフェッショナル・ドライバーの表情を浮かべていたのである。
 
トレードマークとなっているパティのヘルメットをかぶり、シートベルトを締め上げたスターリングは、エンジン回転数をやや高めに保ったままクラッチをつなぐと、勢いよくピットレーンへと走り出していった。ル・マン用のギアのため、1速が高すぎたのだ。
 
私はスージーとともにピットウォールへと向かった。やがて、スターリングがストレートを駆け抜けていく。ペースは決して悪くない。その後、周回を重ねるたびにペースは上がっていったが、緊張している様子は見られない。それを見て、隣にいるスージーが少しずつリラックスし始めているのに気づいた。ふたりは一心同体なのである。
 
スターリングがこのRS61を手に入れたのは2010年の3月のことだ。フロリダで開催されたグッディング&カンパニーのアメリア・アイランド・オークションにて170万ドル(約2億円)で落札したのだ。
 
そしてこの直後のラグナ・セカでスターリングはアクシデントを起こすことになる。生きる伝説ともいうべきスターリングはなぜこのときスピンしたのか。その答えを、プリルは修復作業の途中で見つけ出した。ギアボックス・オイルを抜くと、なんと、オイルと一緒にベアリングのボールが出てきたのだ。これはギアボックスのインターミディエイト・プレートに使われるものだが、よくよく見ると1速ギアに小さな傷あとが残っていた。
 
これらの証拠から、プリルはひとつの仮説を立てた。問題のボールは本来の場所から抜け落ちて1速に噛み込み、これが原因で駆動系が固着、マシンをスピンに追い込んだ。けれども直後にボールが転がり落ち、駆動系はまた本来の機能を取り戻したというのである。


 
「私はスターリングに電話をかけると、ボールベアリングと1速ギアの写真をEメールで送りました。送られた写真を見て、スターリングはこう言いました。『アンディ、ありがとう。あのスピンで私は自信を失っていたんだ』」
 
しかし、シルバーストンを走っているスターリングを見る限り、彼が自信を失っているとはまったく思えなかった。セッションの途中でピットに戻ってきたスターリングは、アクセラレーターのポジションに不満を漏らし、ブーツの履き心地が悪いと訴えた。メカニックたちはスロットルリンケージを調整し、スターリングは別のブーツに履き替えると、再び走行を開始する。今度は見る間にペースを上げていき、走行ラインも徐々にアグレッシブなものに変わっていった。
 
「スターリングは、まるで暴君のようだったよ」アンディが笑いながら教えてくれた。「ある日、彼が訊ねてきたんだ。『ル・マンではどんなギアを使うんだ? 私は150mph(約240㎞/h)で走りたいんだが…』 そこで私はこう応えたのです。『お言葉ですが、もしも150mphも出したら、まるでジャンボジェットに乗っているような速さに感じられるはずですよ』

その後、ロンドンにスターリングを訪ね、『私たちは138〜139mphのギアを使うつもりです』と申し上げたら、『それじゃあ遅い!』とおかんむりの様子でした。やがて彼は部屋を出ると、赤い表紙のレッツ社製ダイアリーを手にして戻ってきました。1961年タルガ・フローリオのページを開くとそこには『長いストレートで215km/hが出た』と書き込まれていました。換算すると、約133mphです。今回はこれをもとにして計算したギア比を選んだのですが、それでもシルバーストンには少々ハイギアード過ぎたようです」

 
「とても魅力的な車だ」とスターリング。「ギアレシオは合っていないが、あれはル・マン用だから仕方ない。車は本当に最高で、ブレーキも素晴らしい。ただし、私は6割くらいのペースでしか走らなかった。私は車の慣らし運転をするように、少しずつ自分自身を慣らしていったんだ」
 
大勢の取り巻きに囲まれた彼は、やがてジェイク・ハンフリーのインタビューを受けるためにポルシェ・エクペリエンス・センターへと移動していった。その後もスケジュールが目白押しだったので、この日はとうとう彼とゆっくり話す機会は得られなかった。

編集翻訳:大谷 達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:David Lillywhite 

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