「史上最も優勝したフェラーリ」と呼ばれた美しきマシンが持つ魔力とは

Photography: Evan Klein


 
アメリカで戦後初めてスポーツカーレースが開催されたのは1950 年のことだ。以降、アメリカの"ロードレース"はヨーロッパのモータースポーツとは違う道を進んでいく。アメリカでは、異なるエンジンとシャシーを組み合わせた“スペシャル”と呼ばれるレーシングカーが盛んに造られた。そこで何よりも重視されたのがパワーアップのための排気量の拡大だ。フォン・ノイマンもこの不文律に従って、南カリフォルニアで10年間活躍した。
 
ノイマンはウィーンで子ども時代を過ごした。当時、足繁く通っていたショールームは、戦後のアメリカで一流の輸入車ディーラーとなるマックス・ホフマンのものだった。1939年に家族とともにアメリカに移住。第二次世界大戦後はロサンゼルスに落ち着き、そこで黎明期のスポーツカーシーンに加わった。

1947年には、スポーツカークラブ・オブ・アメリカの第一のライバルとなるカリフォルニア・スポーツカー・クラブを二人の仲間と設立。クラブ最初のスピードトライアルにジャガーSS100で出走し、優勝している。
 
輸入車ディーラーの草分けであるインターナショナル・モーターズで短期間セールスマンとして働いたあと、独立してノースハリウッドの外れにコンペティション・モーターズという会社を興した。最初は庶民的なヒルマン・ミンクスを扱っていたが、間もなくホフマンを通してポルシェやフォルクスワーゲンを仕入れて利益を上げた。自分のレーシングカーに選んだのは、まずMG、次にポルシェで、最後に行き着いたのがビッグボア・エンジンのフェラーリだった。
 
フォン・ノイマンは1956年に500TRを試している。ハンドリングは気に入ったものの、非力な2.0リッター4気筒エンジンでは、銃撃戦にナイフひとつで飛び込むようなものだった。そこで、翌年フェラーリに真新しいシルバーのTRCを2台注文した際に、大容量でパワフルな625 エンジンを指定してファクトリーで搭載させたのである。この2.5リッター直列4 気筒エンジンは220bhpを発揮したが、もともとF1用に開発され、前年にル・マンでも使われていたものだ。大容量エンジンのカムカバーを収める必要から、ボンネットにも手が加えられてブリスターフェンダーとなった。


 
シャシーナンバー0672 MDTR(マイヤーが所有する車。もう1台の0680 MDTRは後日届いた)は、1957 年春にメキシコのアヴァンダロでデビューし、さっそく軽々と勝利をつかんだ。フォン・ノイマンはこの車でカリフォルニア中を渡り歩き、さらにはライムロックやソルトレークシティー、バハマにも遠征した。西海岸のロジャー・ペンスキーといえるほどではなかったが、そのチーム運営は非常にプロフェッショナルだった。フォン・ノイマンとギンサーは、モディファイド・クラスDを圧倒的な強さで支配し、総合優勝も5 回を数えた。
 
この年の終わりに、フォン・ノイマンのTRCを『Road & Track』誌がテストしている。その評価は次の通りだ。「フォン・ノイマンとギンサーは、ハンドリングが最高で、これほどレースしやすいフェラーリはないと口を揃える。このフェラーリTRC-2500は、これまでわれわれがテストした中で、間違いなく最もセンセーショナルな走りをするスポーツカーだ」

Words: Preston Lerner

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