「史上最も優勝したフェラーリ」と呼ばれた美しきマシンが持つ魔力とは

Photography: Evan Klein


 
翌1958 年、フォン・ノイマンは、正真正銘の250 テスタロッサと、ル・マンで実績を挙げた335 スポルトで、ひとつ上のクラスに参戦した。625 TRC でもレースを続けたが、その成績は控えめなものに留まった。というのも、最強のアメリカン・スペシャルとして恐れられた、シボレーエンジン搭載の“スカラブ”を駆るランス・リヴェントローには歯が立たなかったからだ。そこで、フォン・ノイマンは1959年に向けて新たなエンジンをオーダーした。出力300bhp、カムカバーを飾る赤い結晶塗装と、レヴリミットでの特徴的な咆哮で知られる3.0リッターV12テスタロッサ・エンジンだ。
 
カリフォルニアに到着したシリアルナンバー0750のエンジンは、ギンサーの手でシャシーナンバー0672 に搭載された。ずらりと並ぶ6 基のウェーバーに合わせてボンネットにエアスクープが加わると、車はどこか肉食獣のような雰囲気を帯び、サウンドにも凄みが増した。しかし、その頃フォン・ノイマンは離婚の手続きを進めており、結局これが高くついて、フェラーリの代理店と大半のレーシングカーを手放すこととなった。その上、アヴァンダロでは、予選でまだ10代だったメキシコのリカルド・ロドリゲスにパワーで劣るポルシェ550 で倒され、決勝ではV12 エンジンが高地に適応できずに音を上げて、わずか5 周でリタイアした。これを最後に、フォン・ノイマンは二度とレースに出なかった。
 
だが、そのホットロッドに引退はまだ早かった。わずか1 週間後には、ギンサーがメキシコで開催された別のレースでロドリゲスに完勝している。しかし、フォン・ノイマンの元でTRC が出走したのは、あと1回だけだ。1960年のリバーサイドでのレースで、練習走行中にエンジンブローを起こし、その後は1 年半にわたって防水シートの下で眠っていた。
 
1962年、625/250 TRCは、同じオーストリア移民のオットー・ジッパーに売却された。フォン・ノイマンの元妻からフェラーリの代理店も買い取っていたジッパーは、フォン・ノイマン同様、ブランド力を高めるためにレースを大いに活用した。そのエースドライバーとなったのが、イギリス人のケン・マイルズだ。サンタバーバラでのレースでは、マイルズは唯一のライバルであるビリー・クラウスの"バードケージ"ことマセラティ・ティーポ51 をぴったり追走し続けた。残り2 周でついにマセラティは燃料ホースがゆるんでリタイアし、マイルズが優勝。「俺はとっくに参っていたよ」とクラウスは話している。これがTRC にとって最後の勝利となった。
 
TRC が最後の勇姿を見せたのは、それから2 カ月後のポモナだった。ここでもクラウスがトップ、それをマイルズが追う展開となったが、壊れたのはフェラーリのほうだった。このあとTRC は地元のフォードディーラー、ロン・エリコに売却された。エリコはフェラーリV12をフォードV8 に換装する。計画では、"Ol’ Yaller(オル・ヤラー)"というスペシャルで知られるエリック・ハウザーをドライバーに招聘する予定だったが、実現しなかった。そこで、TRCをドラッグコースに持ち込んだところ、SS 1/4マイル9.9 秒、最終速度142mph( 228.5km/h)という見事な記録を残した。
 

Words: Preston Lerner

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