苦難の連続を歩んできたスクーデリア・フェラーリの歴史

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シーズンが幕を閉じてからも悲劇は続いた。ホーソーンは、F1を引退して数カ月後の1959年1月、サリー州ギルドフォード近郊のホグズバックでジャガーを運転中に事故を起こし、死亡したのである。
 
1958 年10 月、FIA の国際スポーツ委員会( CSI )は、F1 のレギュレーションを1961 年に変更し、最大排気量を2.5リッターから1.5リッターに縮小することを発表した。その頃、F1ではイギリスのメーカーが台頭していた。1956 年のヴァンウォールを筆頭に、クーパーやロータスといった"ガレージスト"が登場。そのミドエンジン車は、フェラーリが固執し続けてきたフロントエンジン車を1958年から凌駕し、1960 年には完全に打ち負かしていた。

しかし、イギリスチームはF1が本当に1.5リッター規定になるとはぎりぎりまで信じようとしなかった。独自の大陸間選手権も提案したが、実現に至らずに終わる。対してフェラーリは、とうの昔に準備を進めていた。結局、イギリスチームがルール変更を受け入れたときには、F 2 用のコヴェントリー・クライマックス4 気筒エンジンで間に合わせるしかなかった。クライマックスやBRMは、ようやく新たなV8 エンジンの設計に着手したところだったのである。
 
こうして1961年はフェラーリ有利で進んだ。洗練された156 はフェラーリ初となるミドエンジンのF1マシンで、先端に鼻孔のような二つの吸気口を設けた形状から「シャークノーズ」と呼ばれた。

タイトルはフェラーリのフィル・ヒルとヴォルフガング・フォン・トリップスの一騎打ちとなったが、フォン・トリップスがモンツァでレース序盤に事故死し、ヒルに軍配が上がった。この年、フェラーリが優勝を逃したのは2回だけだ。それを奪ったのは、ダンロップタイヤを履いたロブ・ウォーカーのロータスを駆るスターリング・モスだった。
 
だが、栄光は長くは続かなかった。イギリスのV8エンジンが実力を付け始めた一方で、フェラーリでは別に詳述する「宮廷の反逆」事件が起き、1962年シーズンは空中分解してしまったのだ。しかし、1964年には盛り返し、新たなV8エンジンでジョン・サーティースがチャンピオンに輝いた。



F1が"パワーへの回帰"を果たした1966年、フェラーリは優勝候補としてシーズンを迎えた。序盤は好調で、ノンタイトル戦のシラクサGPではサーティースが優勝する。だが、続くシルバーストンではブラバム・レプコのジャック・ブラバムにまさかの敗北を喫し、開幕戦のモナコGPではBRMのジャッキー・スチュワートが優勝。サーティースは雨のスパでようやく勝利をつかんだ。
 
ところが、イタリア贔屓のチーム代表、エウジェニオ・ドラゴーニが対立の火種を生む。ドラゴーニは、まずモナコGPで、2.4リッターV 6 搭載の俊敏なマシンを若手イタリア人のロレンツォ・バンディーニに与え、対してサーティースは重い3.0リッターV 12 で市街地レースを戦わざるを得なかった。屈辱はル・マンでも続く。ドラゴーニは、サーティースが前年にカナダでクラッシュして大ケガを負ったことを持ち出して、24 時間レースに耐えられる体調なのかと疑問を呈した。さらには、優勝したスパで、マセラティエンジンのクーパーを駆るヨッヘン・リントに何度かリードを許したことまで批判したのである。サーティースはその場でチームを辞め、クーパーに移籍。その後、フェラーリは1 勝に留まり、4 勝したブラバムがタイトルをさらった。

「後年、フェラーリさんも私も、世界選手権を自ら投げ捨ててしまったと考えるようになった」とサーティースは認めている。

Words: Massimo Delbò

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