苦難の連続を歩んできたスクーデリア・フェラーリの歴史

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敗因はもうひとつあった。それは、スポーツカーレースで生を受けたエンツォお気に入りのV12 エンジンが、既にパワーでライバルに劣っていたことだ。この課題は1960年代末まで尾を引き、特に1967年にフォード・コスワースの革命的なV8エンジンが登場すると、低迷の度は深まった。
 
総じて1960年代は、エンツォにとって理解に苦しむことの多い時代だったといえる。エンジンはドライバーの前に搭載されるべきであり、1968年以降その重要性を増していた空力も、パワフルなエンジンを造る能力のない者のためのものだと信じていたのだ。
 
スクーデリアはロードカーの売上を元にレース活動を続けていたが、F1やスポーツカーレースにかかるコストは増大する一方だった。そこでエンツォは、フェラーリを倒そうとル・マンに巨費を投じていたフォードに買収を持ちかける。しかし、真の狙いはイタリア最大手であるフィアットの関心を引くことではないかと考える者もいた。案の定、フォードとの交渉は決裂し、ヘンリー・フォードを激怒させた。
 
エンツォはこう述べている。「私の権利と品位の観点から、また、メーカーとして、起業家として、そしてフェラーリ従業員のリーダーとして、息のつまる官僚体制が巣くうフォード・モーター・カンパニーのような巨大な機械の下で働くことは不可能だ」
 
すると予想通り、代わりにフィアットが交渉の席に着いた。必要な資金をフィアットから手に入れたことで、スクーデリアの将来は安泰となった。同時に、天才的エンジニア、マウロ・フォルギエーリが、まったく新しいパワフルな水平対向12気筒エンジンの開発に着手した。

「私はマラネロに工場を建て、そこで造る車は世界中で知られるようになった。フィアットはそれを真の産業へと発展させた」とエンツォは称えている。
 
フォルギエーリのエンジンによって、フェラーリは1970年に再びウィナーの仲間入りを果たした。その後は一時低迷するが、フォルギエーリと共に開発を押し進める若手ドライバーが1974年に加入する。エンツォに対しても歯に衣着せぬ物言いをするオーストリア人のニキ・ラウダだ。ラウダは、1976年こそ生死の境をさまよう大事故で惜しくもタイトルを逃したものの、1975年と1977年に2冠を達成した。その後もフラット12は威力を発揮。ジル・ビルヌーブとカルロス・ロイテマンに勝利をもたらし、1979年にはジョディー・シェクターがチャンピオンに輝いた。
 
プロストが去ったあとの1992年は、レース経験のないフィアット幹部が舵を取ったことで最悪の状態だった。しかし、1993年のジャン・トッド招聘が大きな変化をもたらす。現在はFIA会長として批判を受けることも多いトッドだが、当時は1990年代初頭にプジョーを成功に導いた立役者として高く評価されていた。また、実際にプジョーやフェラーリでトッドと仕事をした者は、今もその勤勉さとスタッフを守る姿勢を称えている。夜8時にファクトリーに電話をしてもトッドはまだ仕事をしており、電話に応えてくれたものだ。フェラーリがトッドの生活のすべてだったのである。

ミハエル・シューマッハ、ロリー・バーン、ロス・ブラウンの才能を見事な手腕でひとつにまとめ上げたことで、フェラーリはF1を席巻する黄金時代を迎えた。シューマッハは自身の全91勝のうち、フェラーリ在籍中の1996~2006年に72勝を挙げている。スクーデリアは、トッドの在任中にドライバーとコンストラクター合わせて14のタイトルを獲得し、積み上げた勝利数は106に上った。
 
エンツォ存命中のフェラーリは常に独裁体制だった。脅し文句で震え上がらせたり、自分のやり方を押し通すために参戦を取りやめたりしていたのだ。トッドはこれを変革し、勝利は努力した者に認められる権利であり、上から与えられるものではないというメンタリティーをスタッフに植え付けた。
 
トッドが去ったあとのフェラーリは、タイトル獲得に足る戦闘力のあるマシンをフェルナンド・アロンソに与えられなかった。その後もターボ・ハイブリッドに変わってからの3 年間は、59 戦でわずか3 勝に留まっている。その3勝は後任のセバスチャン・ベッテルがもたらしたものだ。2017年は、フォルギエーリの再来ともいわれるマッティア・ビノットの元で造り上げたマシンで、至上命令である久々のタイトル獲得に向け、幸先のよいスタートを切っている。

Words: Massimo Delbò

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