アストンマーティン崖っぷちからの復活

Photography:AML / Various

デイヴィッド・ブラウンがアストンマーティンを売却してからというもの、ニューポートパグネルは暗黒の時代を迎え、ファクトリーは1974年、ついに扉を閉ざした。いつかふたたび開かれることを信じて。

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1972年、デイヴィッド・ブラウン・グループの業績悪化はいよいよ深刻なものとなり、サー・デイヴィッドがとるべき道は、不本意ながらもAMLを売却することしかなかった。その結果、ずっと平穏だったニューポートパグネルのファクトリーは、その歴史の中でも最も荒々しい波に直面することになった。新しいオーナーであるカンパニー・ディベロップメントはファクトリーの機能を止めなかったが、世界的な経済の混乱のせいで小さな高級車メーカーは崖っぷちに追い込まれたのだ。
 
エディー・コルトンはこの時代のことをよく覚えている。1960年代中頃に整備部門のメカニックとしてニューポートパグネルにやってきた彼は、やがてアセンブリーラインの終端で組み立てにミスがないかをチェックする部門に就いた。次のロードテストがきちんと行えるようにするためだ。在任中は組み付けミスで部品が足りないことなど一度もなかったそうだ。


新しくオーナーになったカンパニー・ディベロップメントは投資家の集団であり、2、3年ファクトリーをアイドリングのように細々と動かしていたが、1974年の終わりまでにキャッシュフローの問題が起こり、アストンマーティン・ラゴンダを管財人の下に置かざるを得なくなった。クリスマス・ニューイヤー休暇から戻った労働者は仕事を失い、AML は本当に厳しい状態に置かれた。
 
やがて彼はロードテスターに昇進した。「DB6 MkⅡとDBSの6気筒、それにV8のテストを担当したんだが、どの車も燃料タンクはまだ何も貼らない状態でテストするんだ。燃料漏れを確認するためにね。テストはウォーバーンを通ってM1ジャンクションのリッジモンドに至るコースで行ったんだが、M1を65~70mph(約105~113km/h)で走っていたらアクスルから大きな音が聞こえてきた。点検のためにファクトリーに戻ってステアリングラックを注意深く見るとゲートルの部分から多少のオイル漏れが見つかった。ファクトリーの連中がすぐさま修理をやってのけたのは見事だったね。

あるとき燃料噴射のV8でM1を飛ばしていたらオイルプレッシャーゲージにつながるパイプが破裂したんだ。ウィンドスクリーン全体にオイルが飛び散ってもう走れない。路肩に止めて修理をしたよ。いつも持っている小さな修理道具でね。私はいつも言っているんだが、パイプの破裂は故障じゃないと。すぐに高圧パイプは直ったよ」
 
新しい経営チームによる最初の会議で決定されたことのひとつが、ウィリアム・タウンズがチーフスタイリストを務める新しい4ドアサルーンの革新的な提案にゴーサインを出したことだ。写真は、パイプをくわえたピーター・スプラーグとアラン・カーティス(座っている人物)が、デザインチームのメンバーとインテリアについて協議しているところ。

ファクトリーが1975 年に閉鎖されたとき、彼はアストン・サービス・ドーセットにいて、ここで幸せな引退を迎えた。今もドーセットで暮らしているが、ニューポート・パグネルで過ごした日々のことは忘れていない。「ロードテスターになったことで私は本当に磨かれた。トラブルは多かったけれど素晴らしい車ばかりだったよ」

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Peter Tomalin 

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