世界中に衝撃を与えたフェラーリのコンセプトカーとは?

Photography: Mark Dixon

ピニンファリーナが長年にわたって守り通してきたデザインエッセンスからすれば、1970年3月のジュネーヴ・ショーで公開されたモデューロは、意表をつく革新的なモデルであった。その年の大阪万国博覧会のイタリア館には、イタリアンカーデザインの最新作として展示され、来場者を驚かせた。

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ピニンファリーナでデザインディレクターを務めるファビオ・フィリッピーニによれば、モデューロのデザイン思想は、誕生から40年以上を経た現在でも、ピニンファリーナの最新コンセプトカーに大きな影響を与えているという。

「1960年代の後半から1970年代初頭は、コンセプトカーにとって素晴らしい時代だったといえます。この時代のモデルで私が個人的に秀作だと思っているのは、ベルトーネのストラトスHFゼロ、ピニンファリーナのフェラーリ512Sベルリネッタ・スペチアーレ、そしてモデューロでしょう。最も先進的かつ独創的なものがモデューロです。それはまったく別のデザイン哲学を持っているのです。ピニンファリーナのミュージアムに訪問者があると、必ずモデューロに引き寄せられます。モデューロは過去に造られた“未来のクルマ”と違って、旧くなっていないのです。1950年代にGMのハリー・アールが手掛けたコンセプトカーは優れたものでしたが、それでも、数年で旧く感じられるようになりましたね」

モデューロのスタイリングを手掛けたのは、パオロ・マルティンだ。彼は同世代のスタイリストの中で最も独創的なデザイナーの一人であった。1943年トリノに生まれた彼は、まだ10代のころにストゥーディオ・ミケロッティの一員となり、ジョバンニ・ミケロッティから仕事を学んでいった。1966年にカロッツェリア・ベルトーネからの誘いを受けて移籍、1年後の1967年にピニンファリーナに移った。ピニンファリーナでは、最初の仕事から大きな試練が待ち受けていたという。
 


パオロ・マルティンにモデューロ誕生の経緯について語ってもらうことにしよう。
「私が1967年から71年までにピニンファリーナでデザインした車は、すべて大きく違っていました。差別化こそ私自身のトレードマークだと考えていたからです。最初の車、フェラーリ・ディーノ206コンペティツィオーネのスタイリングを思いついたのは自宅のバルコニーでしたね。シンプルな美しいシルエットは、ミケロッティに教え込まれた車のデザインそのものでした。ところが、ゼネラルマネジャーだったレンツォ・カルリは、そうは思わなかったらしく、フロントとリアに、大きなスポイラーを加えてしまったのです」
 
モデューロを初めて議題に上げた際には、声がかき消されるほどの非難を浴びたという。マルティンは、出世より自身のデザインへの欲求を満たすことに関心があったようだ。
「1967年末に遡ります。そのころ、私はほぼ完璧にフロントとリアがシンメトリーな車の構想を温めていたのですが、そこまで革新的なものはピニンファリーナのDNAにはなく、私のアイディアが入り込む余地はまったくありませんでした」
 
マルティンは、後にロールスロイス・カマルグとして生産化される車のデザインを命じられた。モデューロとは外見も精神も正反対の車だ。しかしマルティンは同時進行を得意としていたので、勤務時間後にモデューロのアイディアを推し進めていった。スケッチから10分の1モデル製作の段階に進み、1968年8月、イタリアの休暇でスタジオが閉まるのを待って、構想を三次元の現実に近づけた。
 
フィッシュグルーで接着したポリスチレンの塊とトレーシングペーパー、彫刻刀、2個の自動車用バッテリーでマルティンは取りかかった。休暇中にモデルを完成させたが、考えが受け入れられることはなかった。「レンツォ・カルリもセルジオ・ピニンファリーナも私の作ったものに非常に不満だった。ふたりとも受け入れる準備ができていなかった。モデルは片付けられた。いや隠されたようなものだった」とマルティンは語る。
 
だが、そんなマルティンをベテランデザイナーのフランコ・マルティネンゴが擁護した。マルティネンゴは、天性の才能に恵まれた将来のスターが技術を磨くことを支援し続け、モデューロに当惑しつつも興味をひかれていた。また、ピニンファリーナ社を刺激することにも腐心していたマルティネンゴは、ライバルのベルトーネが作るものに比べてデザインがありきたりになりつつあると考えていた。マルティンのアイディアを必ずしも理解してはいなかったが、否定もしなかった。彼は上司を動かせる存在だった。
 
1969年の末になって、ようやくモデューロに許可が出た。気が変わった理由には二つの要因があった。まず、1970年3月のジュネーヴ・モーターショーまで間がなかったが、ピニンファリーナはまだ新しいコンセプトカーに取り掛かっていなかったこと。

二つ目にはフェラーリからプロトタイプ用のシャシーが割り当てられていたことだ。(訳注:Octane英国版に掲載された原文を含め、日本でもモデューロのベースはレーシングスポーツカーの512S(No.1046)とされてきた。だが、近年の調査では、1046は部品の状態で販売されて512Sとして現存していることが判明しており、モデューロのベースはCan-Am用612Pシャシー(0864)であるとの説が有力視されている)

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Richard Heseltine 

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