時代を超越した天才的エンジニアとフェラーリの出会い

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イタリアの自動車史にその名を刻むヴィットーリオ・ヤーノは、時代を超越した天才的エンジニアだった。戦前はアルファロメオで直列6気筒と直列8気筒エンジンを設計。その後も、ランチア・アウレリアのために量産車初となるV6エンジンの開発を指揮し、ランチアのグランプリカーD50に搭載するV8エンジンも設計した。ランチアのレース部門は、1955年に丸ごとフェラーリに引き継がれ、ヤーノもD50と共にフェラーリに移った。
 
だが、ヤーノとエンツォの出会いはもっと前にさかのぼる。ヤーノは1891年にハンガリー移民の家系に生まれた。1923年にエンツォに誘われてフィアットからアルファに移ると、P2グランプリカー、6C 1500と1750、そして8Cと、次々と名車を生み出した。やがてエンツォはスクーデリア・フェラーリを設立し、直列8気筒エンジンを搭載したP3(ティーポB)でレースを始める。一方、ヤーノは1937年にアルファを去ってランチアへ移った。それから18年後に、二人は再び手を組むこととなったのである。
 
戦後のフェラーリエンジンといえばコロンボとランプレディの名前が有名だ。その頃ヤーノは、ランチアでアウレリア用V6 の開発を通してフランチェスコ・デ・ヴィルジリオを指導していた。ヤーノがフェラーリに移ったのは、エンツォの息子"ディーノ"ことアルフレードがバンク角65°のV6エンジンを開発しようとしていたときだった。ヤーノは、筋ジストロフィーで入院したディーノを見舞い、そのアイデアを取り入れてV6 エンジンを完成させる。しかし、ディーノはそれを待たずに1956年にこの世を去った。
 
ヤーノも1965年に息子を亡くす。自身も急速に体調を崩し、希望を失ったヤーノは、その年に自ら命を絶った。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA

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