コルベットを「アメリカを代表するスポーツカー」へと導いた1台の救世主とは?

1956年セブリング12時間レースに出場した、カーナンバー「1」を冠するコルベットSR。このマシンは、一時は存続すら危ぶまれたコルベットの命運を、「アメリカを代表するスポーツカー」の栄誉に導いた救世主だ。

現在は、米国オハイオ州在住で長年にわたりコルベットのエンスージアストである、チャック・ウングレアーヌのガレージにおさまっている。

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1953年に発表されたコルベットは、当時は単なる“ファッショナブルなクルマ”と見られがちだった。迫力にかける直列6気筒エンジンを、シボレー最新鋭の265ci(約4350cc)V8エンジンに替えても、熱心な顧客層の反応は思わしくなかった。このため、ゼネラルモーターズ(GM)の傘下であるシボレーの重役陣の間では、企画の凍結もささやかれ始めていた。

しかし、1954年にGMの重役陣は本腰を入れ始めることになる。ライバル社のフォードがサンダーバードを発表し、好評を集めたのだ。フォードが初年度でサンダーバード約16,000台を売り上げたのに比べ、GMのコルベットは約700台にとどまっていた。GMにとっては堪えがたい状況だ。

早々に、コルベットへのテコ入れが検討された。プロジェクトの急先鋒は、GMスタイリング・チームのカリスマであるハーリー・アールと、シボレーのチーフ・エンジニアであるエド・コールだ。

数々の案から最終的に選ばれたのは、当時はシボレーのエンジニアリング・チームの新人で、後に「コルベットの父」と呼ばれたゾーラ・アーカス=ダントフの提案だった。ヨーロッパ出身でパートタイム・レーサーでもあった彼は、ヨーロッパ車の特徴を本格的に取り入れつつも、アメリカのスポーツカー・レース界を圧倒できるようなクルマにコルベットをビルドする案を推した。確かに、賞歴は売り上げにも大きく貢献する。1955年、エド・コールはダントフのプロジェクトにゴーサインを出した。

エド・コールはさらに、目標を1956年3月に開催される「セブリング12時間レース」に定めた。また、全米でも最上級の国際ドライバーであり、開発エンジニアでもあるジョン・フィッチも雇い入れた。ダントフのアイディアを結果につなげ、レースを勝利に導くためだ。

セブリングにむけて、シボレーのエンジニアたちは、計4台のホットロッド・コルベットをジョン・フィッチに提供した。プロダクション・クラス用の3台には、スタンダードの265ci V8を強化したエンジンと、3速トランスミッションが搭載された。プロトタイプ・エントリー用の1台には、ボア径を広げて強化された307ciエンジンと、ドイツのZFフリードリヒスハーフェン社製4速トランスミッションが搭載された。

どのエンジンも素晴らしかったが、特に307ciは際立っていた。現在ではレジェンドとされる「ダントフ・カム」と呼ばれるカムシャフトや、カーター4バレル・キャブレター2基が搭載され、255馬力を記録したという。また、デイトナ・ビーチでは、ダントフの運転ですでに時速150mph(約240km/h)を叩き出していた。

抄訳:Full Package

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