型破りなレーシングマシンを造った業界最後の独立独歩の人とは

octane UK


 
1966年にはプライベートチームのミニ・マーコスがル・マン24時間に参戦し、英国車のトップで完走した。レース中、マーシュはこの車とできる限り距離を置こうと努力していたと、2001年に回想している。

「車は急ごしらえだったから、長くはもたないと思っていた。ミニの設計者のアレック・イシゴニスもいたんだが、車を見てあきれ果てていたよ。私はみんなに、長くは走れないといって聞かせた。あくまでもあれはプライベートチームだとね。関わっていると思われるのは迷惑だった。ところが車は走り続けたんだ。私も、これは24時間持ちこたえるかもしれないと思い始めて態度を改めたよ。結局、ぎりぎり半周で完走扱いになったんだ」
 
1960年代には主要な国際レースに断続的に参戦していたマーコスだが、1968年に満を持してウッドフレーム、ミドシップのスポーツレーサーを発表する。
 


「本格的に速い車を何としても造りたかったんだ。もう一度ル・マンに挑戦する計画だった。あの素晴らしいウェッジシェイプの車をデニス・アダムズがデザインした。私はギルフォードにある中華レストランでジャック・ブラバムと落ち合って、レプコ-ブラバムV8を確保した」と回想している。
 
こうして誕生したマンティスXPだったが、ファクトリーが洪水に遭ったため、レースに参戦したのは1度きりだった。ル・マン挑戦も夢と消えた。
 
1年後、マーコスは大きな方針転換を行う。合板製シャシーをスチール製に変更したのだ。木製に対する顧客の抵抗感もあったが、一番の理由は船舶用合板の価格上昇だった。こうして発売された3リッターのフォードV6バージョンは即座に人気を博す。しかし、繁栄は長くは続かなかった。
 
1970年代初頭、ウェストバリーにあるより大きなファクトリーに移り、新たに4座席のマンティスを発売した。だが、この移転が経営に響いた。さらに悪いことが重なり、アメリカに輸出した27台が排ガス基準を守っていないとして押収されてしまった(実際には準拠していた)。
 
収入を失ったマーシュは、1971年にやむなく会社を売却する。その後資産は売り払われ、事業は閉鎖されてしまった。それでもマーシュは隣に店を構えるとスペアを販売してビジネスを続け、1981年にマーコスを再興。以前のシルエットそのままのクーペをキットの形で販売した。だが、キットカーという言葉は禁句だった。マーシュはこの言葉を嫌い、即座に否定した。
 
マーコスは1990年代も何度かオーナーを代えながら存続し、マーシュは名目上ではあったがトップを務め続けた。メディアとはお世辞にも良好な関係だったとはいえない。マーコスに理解を示す者にはフレンドリーで陽気だったが、批判的な者に対しては態度が変わった。だが、マーシュは常に"面白い"人物だったのだ。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA

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