フェラーリの化粧直し│コーチビルダーとの関係を振り返る

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コーチビルダーがいなければ、フェラーリも存在しなかった。フェラーリのロードカーは1950年代末頃までごく少数生産で、製造台数がひと桁のモデルも少なくなかった。いわばマラネロは、王室や裕福なプレイボーイ、映画スターを相手にした高級ブティックだったのだ。

ワンオフの依頼もおやすいご用だった。ローリングシャシーを販売して、そこに外部のカロッツェリアがボディを架装するのが一般的だったからだ。
 
フェラーリの草創期、主にその役目を仰せつかっていたのがアルフレード・ヴィニャーレの会社だった。ヴィニャーレは7人兄弟の5番目で、父親は車の塗装職人だった。1924年に11歳でトリノのコーチビルダー、フェレーロ&モランディの見習いとなり、6年後にバティスタ・"ピニン"・ファリーナの目にとまって、その元で修行を始める。

やがて24歳で、バティスタの兄であるジョバンニ・ファリーナ率いるスタビリメンティ・ファリーナに引き抜かれ、ワークショップを任された。しかし、ヴィニャーレの夢はいつか自分の会社を興すことだった。その実現は戦争にはばまれ、ようやく自身のワークショップを構えたのは1947年のことだ。
 
製材所の跡地で細々と始めた事業だったが、冷蔵用コンテナの製造を請け負ったことで成長した。ヴィニャーレのバッジを最初に付けた車は、ボディを載せ換えたフィアット500 だ。この頃から、スタビリメンティ・ファリーナ時代の同僚、ジョヴァンニ・ミケロッティと頻繁に手を組むようになった。ミケロッティがデザイン画を描き、それをヴィニャーレが三次元に変換。双方の長所を生かすことで、カロッツェリア・ヴィニャーレの名声は急速に高まり、瞬く間にフェラーリお気に入りのデザインハウスとなっていった。
 
ヴィニャーレは、驚異的なペースで次々と新たなボディを生み出していった。そのすべてが美しいデザインとはいえなかったが、あっといわせる大胆さとモダンさは共通していた。ところが、フェラーリとの協力関係はわずか数年で幕を閉じる。エンツォ・フェラーリはロードカーに対して冷淡だったことで有名だ。だからこそ、様々なスタイルのボディを外部に製造させていては、出来上がりにばらつきが生じることにも気づいたのである。エンツォは統一性を高めたいと考えた。それにはパートナーが必要だ。カロッツェリアを1 社選ぶ必要があったが、選ばれたのはヴィニャーレではなかった。

1950~55年にヴィニャーレがボディを架装したフェラーリは約150台に上ると考えられている。ところが、その後は1968年までぱったりと途絶えた。フェラーリのパートナーの地位は、ヴィニャーレの元雇い主、ピニン・ファリーナへと徐々に引き継がれていったのである。

Words: Massimo Delbò

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