独創と革新 シトロエンの100年 第一弾│成功の証をエンブレムに

PEUGEOT CITROEN JAPON

流れ作業による大量生産方式を採用、欧州で車を大衆化させたシトロエン。人間的でありながら、独創的で革新的な技術やスタイルを武器にたえず進化を続けている。そんなフランスの"大衆車メーカー"の100年の足取りを追ってみた。

パリ15区のセーヌ川左岸に、アンドレ・シトロエン公園という場所がある。近くにはジャヴェル・アンドレ・シトロエンという地下鉄の駅もある。ジャヴェルはこの近辺の河岸の名前であるが、いずれにせよパリ市内で車に関する地名はここだけであろう。
 
公園や駅の名前にもなったアンドレ・シトロエンは1878年、5人兄弟の末っ子としてパリで生まれた。父はオランダ人、母はポーランド人でともにユダヤ系だった。
 
オランダ語でレモンのことをシトロン(Citroen)という。フランス語のシトロン(Citron)と発音は近い。アンドレの父は宝石商を営んでいたが、祖先は果物屋で、柑橘類に強かったことから苗字に当てたという。その後パリに移住するにあたり、Citroenをそのままフランス語読みするとシトルンになってしまうので、eの上に分音記号のトレマをつけシトロエンとしたようだ。
 
アンドレは幼い頃から機械に興味を示しており、パリにある国立工科大学に入学。卒業後、在学中に亡くなった母の故郷ポーランドの首都ワルシャワを訪ねる。ここで彼は、山型(シェブロン)形状の歯車を目にした。通常の歯車より騒音が少なく、伝達効率も優れていた。彼はその場で特許権を購入した。
 
フランスに戻ったアンドレはすぐに歯車工場を立ち上げるが、一方で1908年には モール(Mors)という自動車メーカーの経営を任される。彼の舵取りによって、モールは急速に経営を立て直した。しかし1914年に第1次世界大戦が始まると、アンドレは戦場に赴くことになる。


 
ここで彼が痛感したのは砲弾の不足だった。アンドレはその前から、アメリカのヘンリー・フォードが1900年代初頭に確立した、流れ作業による大量生産に興味を抱いていた。彼はフォードの方式を砲弾作りに応用することを軍隊に提案し、受け入れられる。
 
工場の場所として選んだのが、現在は公園となっているジャヴェルだった。アンドレは早速工場を建設すると、1日5万発の砲弾を製造した。この数字は当時の水準の10倍にも達するものだったという。
 
戦争が終わると、彼はいよいよ自分の名前を冠した自動車造りに乗り出す。工場は自動車生産用に建て替えられ、大戦が終結した1919年の終わりには、早くも第1号車のタイプAを送り出した。エンブレムとして彼が選んだのは、自身の成功のシンボルであったシェブロンを2つ重ねた図案、つまりダブルシェブロンだった。
 
1327㏄の直列4気筒エンジンで、全長4mのボディを走らせるタイプAは、機構的には目新しい部分はなかったが、生産方法は注目に値した。先の砲弾作り同様、近代的大量生産方式である流れ作業を導入し、1日30台というペースで作られたのである。

アメリカではフォードという先例があったものの、ヨーロッパでは初の大量生産車だったタイプAは、価格が当時の同クラスの約半分に抑えられていた。これによって多くのヨーロッパ人が、車を所有する喜びを味わうことができた。
 
2年後にはこのタイプAの後継車であるタイプB2を送り出す一方、1922年にはひとクラス下に位置する2人乗り856㏄のシティコミューター、5CVの生産を始めた。
 
4年間で8万台以上が送り出されるヒット作になった5CVでは、アンドレが広告や宣伝の分野でも類いまれなる才能の持ち主であることを証明した。初期型のボディカラーをイエローに統一することで、プティ・シトロンと名づけたのである。

文:森口将之 Words:Masayuki MORIGUCHI

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