独創と革新 シトロエンの100年 第一弾│成功の証をエンブレムに

PEUGEOT CITROEN JAPON


 
前に書いたように、シトロンとはフランス語でレモンを表す単語で、シトロエンという名前とも関連がある、深い意味を持つキャッチコピーだった。しかも自動車としてはいち早く、女性をターゲットに据えた。
 
当時ファッションの分野ではココ・シャネルが、活動しやすさにこだわった革新的なスタイルを次々に発表し、コルセットで締め付けられていた女性を心身ともに解放した。5CVは自動車の世界におけるシャネルに近い存在だったといえるかもしれない。
 
シトロエンの広告戦略で有名なものとしてはエッフェル塔も忘れられない。1925年、エッフェル塔に25万個の電球を使ってCITROËNの7文字を描いたことがある。
 
この広告は10年以上続けられ、1927年には米国の飛行家チャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に挑戦し、無事にパリに到達しているので、機上からこのシトロエンの広告を目にした可能性もある。
 
一方でアンドレは自動車を、「空間を時間によって征服する」手段としても捉えていた。そのためにボディ後半に戦車のようなクローラを備えたハーフトラックでアフリカおよびアジア横断を敢行している。
 
まず1922年、アルジェリアのアルジェからマリのトゥンブクトゥまで7000kmを走破してサハラ砂漠横断に成功すると、2年後にはアルジェリアのコロンベシャールからマダガスカル島のタナナリヴォまでの2万kmを8か月で走り切り、アフリカ大陸横断を達成した。このときの隊列は「黒い巡洋艦隊」と呼ばれた。
 
そして1931 年にはシリアのベイルートと中国の北京を2隊が同時に出発し、中間地点となるパミール高原で合流、北京へ戻るという探検を企画した。総走行距離1万2000km 、所要時間10カ月にも及んだこの探検旅行は「黄色い巡洋艦隊」と呼ばれている。
 
この間市販車では、1924年発表のB10で欧州初の全鋼製ボディを採用し、翌年デビューしたB12では4輪ブレーキをいち早く導入。1932年にはスプリングとラバーブロックを併用したフローティング方式エンジンマウントをC4G/C6Gに採用するなど、革新的な技術を率先して取り入れていた。
 
その集大成といえるのが1934年に発表された前輪駆動モノコックボディの7A「トラクシオンアヴァン」である。しかし先進志向の車造りと大胆な広告戦略は会社運営を圧迫することになり、同じ年にシトロエンは経営破綻してしまう。アンドレ・シトロエンは会社を追われ、翌年世を去った。

シトロエンの経営はタイヤメーカーのミシュランに委ねられることになり、同社からピエール・ミシュランが社長、ピエール・ブーランジェが副社長として招かれた。ピエール・ミシュランは4年後に交通事故で亡くなってしまい、その後はブーランジェが指揮を務める。
 
車両の開発はミシュラン体制になる直前に加入し、トラクシオンアヴァンの開発にも関わったエンジニアのアンドレ・ルフェーブルとデザイナーのフラミニオ・ベルトーニが主導することになった。
 
ルフェーブルは航空機メーカーのヴォワザン出身で、同社が第一次大戦後自動車会社に転身する中で経験を積んでいくが、経営不振によりルノーに移籍したところ声を掛けられた。イタリア出身のベルトーニは母国でキャリアをスタートさせ、渡仏後シトロエンに合流している。

文:森口将之 Words:Masayuki MORIGUCHI

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