1923年にサハラを越えた最初の自動車とは?

PEUGEOT CITROEN JAPON

第一次大戦中には、無限軌道(いわゆるキャタピラ)の実用化が進んでいた。アンドレ・シトロエンは終戦後、ゴムを用いた軽量無限軌道システムを開発したアドルフ・ケグレスの特許を買って、ハーフトラックを商品化することになった。シトロエン車の後輪を無限軌道に置き換えたトラックであり、フランス政府や軍とのコネクションも持つシトロエンは、当初からこれを軍用も視野に入れていたといわれるが、当局から要請されたのは、アフリカの植民地開発に使用する車両の開発であり、シトロエンはこれに応えて、B2をベースにしたハーフトラックで北アフリカのサハラ横断を敢行。

このときライバルのルノーも6輪車を開発して同じことをしたが、1923年初頭に、サハラを越えた最初の自動車となったのはシトロエンだった。


 
シトロエンは、このあとさらにアフリカの奥地への探検を企画。1924年から25年にかけて8台のハーフトラックで、アフリカ大陸を北から南まで約2万kmを走破した。これが通称「黒い巡洋艦隊」である。このときの探検旅行は学術調査を行い、さまざまな分野の専門家や撮影チームが同行して、大量の貴重な標本や映像などを持ちかえった。
 
さらにこのあと「黄色い巡洋艦隊」が組織されて、アジア大陸に挑んだ。ただこの計画は、通過するソ連や中国の政変などで予定どおりには進まず、レバノンのベイルートから東へ向かう隊と、中国の天津からの西へ向かう隊に分けて、2隊が中間地点で合流し、その後北京でゴールした。前者は過酷な峠越えをするために4気筒のC4をベースにした軽量仕立ての車両、後者は6気筒のC6をベースにした堅牢な車両が用意された。ベイルートからのパミール部隊は、ヒマラヤ越えの際には標高5000mにもなる峠越えをしいられ、断崖絶壁を通過するために車両を分解して運んだというのは有名な話である。


 
この旅では、あまりの過酷さに、総指揮官だったアンドレ・シトロエンの経営上の右腕ジョルジュ・マリ・アールトが死亡する悲劇が起きた。しかし米国の著名なナショナル・ジオグラフィック誌がこの探検を支援するなどしており、詳細が人々に伝えられることになった。この1931〜32年の探検のあと、さらに1934年に極寒のカナダで「白い巡洋艦隊」が行われている。

文:武田 隆 Words:Takashi TAKEDA

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