フランスが誇る最高峰の車?!知られざる革新的な1台

PEUGEOT CITROEN JAPON


 
だが、システムの開発に問題がなかった訳ではなかった。主に雨漏れなどのシールについてだったが、エンジニアのピエール・ティエリー(部下たちへの当たりがとても強いことから「ホワイト・トルネード」のニックネームを持つ)が率いる開発チームの手によって解決をみた。スタイリング部門も忙しく働き続け、ユーバナードのデザイン提案は数週間の内にオプロンによって承認された。 そうして、10月のパリ・サロン出展のためのショーカーの準備が整った。
 
ショーカーのスタイリングは大胆のひと言に尽きた。濃いパープルに塗られ、ルーバーカバー付きの後部ドアガラスは、ベルトーネが手掛けたショーカーのカラボを彷彿とさせる。インテリアは、タンのスェードと対照的なグリーンのレザーによるコンビネーションでトリミングされ、クロームのホイールキャップは、ちょっとした煌めきを加えていた。SM の開閉式リアウィンドウは、電気的に車体に格納する1組のペアに取り換えられた。4つの窓をすべて降ろすと、すっきりとしたピラーレスなボディワークが現れる。
 
ところが、ショーの前夜、ポルト・ド・ヴェルサイユに車を搬入している最中に、予期せぬ事態が発生した。肝心のルーフが開かなかったのだ。原因は、なんと一匹のネズミが車内に侵入し、装置の配線をかじってしまったことで、すぐに修理が行われた。SMエスパスはショーで非常な大成功を収め、ユーリエは大きな注目を集めた。しかし見込み客たちは、そのジャジーなトリミングと配色を不快に思った。このためユーリエは、二台目のSMエスパスを造り、1972年にブリュッセル・モーターショーで発表させることになった。2 台目の車にもルーフメカニズムと格納式のリアウィンドウが受け継がれたが、“キザな”インテリアやホイールキャップ、後部のルーバーなどは廃止されてしまった。こうして、製造の準備は万端に整っているように見えていた。もしシトロエンからの製造承認が得られていたら、SM の販売を強化するために様々な対応がなされていたのだろう。
 
当然ではあるが、シトロエンのパリ本部からの電話はなく、エスパスのプロジェクトは流れてしまった。オリジナルのショーカーは売却されたが、その一方で2 台目はシトロエン社により保管された。その後はセリゼの工場で長期間に渡り眠り続けた。それは、他の大手メーカーの生産ラインに柔軟性がなかったことで、ニッチなモデルを望むメーカーから、ユーリエに仕事が舞い込んでいたからだ。こうして、ユーリエは30 年間にわたってニッチなモデル生産で生きながらえてきた。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:BE-TWEEN Translation: BE-TWEEN Words: Keith Adams Photography: Paul Harmer

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