スター誕生│スティーヴ・マックイーンと共演した本物のフェラーリ 前編

Photography: Jerry Wyszatycki


 
1967年の初めに米国に到着した09437スパイダーは、いきなりセブリング12時間レースに出場する。有名な自動車ライターでジャーナリスト、さらに後に『オートウィーク』となる雑誌の創設者でもあったデニース・マックラゲージと、最初の夫であるウィンドリッジの姓でも知られているマリアンヌ・"ピンキー"・ローロの女性クルーがステアリングホイールを握った。マックラゲージはだいぶ後になってから、その車の薄いイエローのカラーについて、「君はタクシーを作ったのか?」と、エンツォがキネッティをからかったことを語っている。
 
NARTのエンジニアだったロジャー・コルソンは、60年も前に米国に移住したフランス人だが、当時のことをこう語ってくれた。「最初のスパイダーは1966年から67年にかけての冬に、NARTの本拠地であるコネチカットのグリニッチに到着した。セブリングに向けてロールバーとレース用のシートベルトを取り付けなければならなかったが、それ以外の改造は加えなかったと思う。燃料タンクを交換したかもしれないが、そのぐらいだ。トランクのフロアボードをピットサインボードに使ったくらいだ! 私自身もそれを掲げたが、裏側にチョークで"IN"と大きく書いた文字が今も残っているはずだよ」


 
スパイダーはNVRT(ノーザン・バーモント・レーシングチーム)の名前でエントリーされた。というのも、キネッティのNARTはその前年の起きた死亡事故のせいで出場停止となっていたからだ。スポンサーには燃料メーカーのCITGOが付いていたが、その会社がレース後に発行していた素敵なニューズレターには、マックラゲージが彼女の新著である『Are You A Woman Driver?』をマリオ・アンドレッティに見せている写真が載っている。アンドレッティはブルース・マクラーレンと組んでワークスのフォードGT40Mk.Ⅳを駆り、そのレースを制している。マックラゲージはルマン式スタートの前にTVのインタビューも受けていた。
 
他に6台出場していたフェラーリはレースが進むにつれて一台、また一台と脱落していったが、それらのチームのクルーが皆手伝いに加わったということも語り草になっている。「その年のセブリングを完走したフェラーリは我々の1台だけだったんだ」とコルソンは語る。「同じ石油会社がスポンサーのマトラが参加していたんだが、他のフェラーリがリタイアし始めるまで、メカニックは私ひとりだった。ところがその後、皆がチームに加わってゴールまで助けてくれた。スパイダーはまるで魔法のように走った。ピットストップの間にホイールがなくなってしまうといった不思議な話もあったが、そもそも我々はストリート用タイヤで走っていたんだ」 

ピンキー・ローロは、マックラゲージほどサーキットで知られた顔ではなかったが、彼女の記事はピンキーを称えている。「ピンキーはとても素晴らしかった。特にピット前を通過する時の正確なシフトを覚えている。彼女は他の誰かのように顔を売るために参加したのではなく、そもそも非常に速かった」
 
女性たちは185 ラップを走り切って見事に総合17 位、GT5リッタークラスの2位に入賞した。そのクラスを制したのは、ロス・カバロス・レーシングチームのシェルビーGT350だった。


後編へ続く

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Marc Sonnery 

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