バラック小屋のような粗野なつくりをした1台

PEUGEOT CITROEN JAPON

トラクシオンアヴァンが発売されて間もなく、1935年にミシュランがシトロエンの経営を担うことになった。ミシュランが新たにたてた新型車計画には、中型乗用車2種類と超小型車、それに商用車があった。このうち中型乗用車は1955 年のDS まで実現されなかったが、1938年に市販化された商用車のTUBとともに、超小型車のTPVが1939年に市販化される予定だった。ところがTPVは、その市販化目前に第二次大戦が勃発し、世に出るのはようやく終戦後の1948年のことだった。このTPVとは、2CVのことである。
 
TPVのコンセプトはフランスの国民車だった。1930年代の段階では、フランスにはまだ十分に自家用車が普及していなかった。シトロエンを筆頭に大量生産がフランスでも実践されていたが、まだ誰もが買える真の大衆車はない状態で、自動車普及率はアメリカよりはるかに低かった。そのため新オーナーのミシュランは、徹底的に価格が安く、なおかつ庶民の生活の場で役に立つ車をつくろうと考えたのだった。
 
TPVは順調に開発が進み、先行量産モデルがラインを流れるところまで行った。ところが戦争勃発のため発表が延期になり、生産ラインも止められた。そしてシトロエンの本拠地パリは間もなくドイツ軍に占領される。TPVは250台が完成か半完成の状態に組み上げられていたが、ミシュランから来た社長のブーランジェは、ドイツ軍にTPVを見せないよう頑固に抵抗し、そのすべてを隠すか破壊する処置をとり、残っていた車両もその後破壊された。 

戦時中もTPV、つまり2CVの開発は、シトロエンの秘密のテストコースで細々と続けられ、終戦までに数多くのプロトタイプがつくられた。ただそれらは1939年のTPVとは別のもので、文字どおりの試作車だった。戦前のTPVについては、戦後はその存在こそ知られてはいたが、当時のままの現存車はないと考えられていた。ところが戦後、1968年に1台、1994年に3台がテストコース内の建物から発見された。
 
1939年のTPVは、バラック小屋のような粗野なつくりではあるが、れっきとした生産型だ。開発を直接指導したブーランジェの考えで、コスト抑制のために簡素に徹して仕上げられた。軽量化のために、車体はジュラルミン合金を多く使用。室内もシートは座面まで金属製であり、必要ならクッションを上に置くというだけのものだった。背もたれは天井からワイヤーで吊るされており、まさにハンモックさながらであった。

戦後の市販型よりもさらにプリミティブな出で立ちであるが、2CVの原点の姿が歴然とそこにはあるのだった。

文:武田 隆 Words:Takashi TAKEDA

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