派手なクラッシュで果たせなかったル・マン出場の夢 26R 後編

Photography:Paul Harmerv

それはロータスをベースとする軽量なスポーツカーである。ボディは金色に輝いているが"ゴールド"ではなく、アルミニウムでできている。ユニークだがちょっと派手なロータス、それはどんな車だったのだろうか、サーキットドライブを通して全容を語ってみた。後編

イアン・ウォーカー・レーシングが全盛だった頃、IWRは金色に塗られた派手なロータス・エラン26Rでも知られるようになり、ロータスBチームとのあだ名が付くほどになっていた。金色の26Rは全部で3台あって、どれもチャプマンの息のかかったものだが、そのうち2台はIWRの所有車、残り1台はまったくの不動車とされていた。不動車といったらイメージは悪いが、見方を変えれば、稼働時期はもっとも短く、ポテンシャルを発揮した期間も短かったということを意味する。そしてその車こそが今日我々がテストさせてもらう車で、イアン・ウォーカー・レーシングのエラン・クーペと呼ぶにふさわしいもっとも有名な26Rなのである。
 
この車のどこがスペシャルかといえば、空力的なボディシェイプだけでなく、ウィリアムズ&プリチャードによるワンオフのハンドビルドのアルミニウム・ボディを載せているという点にある。ちなみに、そのテールライトなど灯火類はウォーカーがどこからか探してきたタダ同然のフォード製パーツだそうだ。実際の製作は、IWR のチーフ・メカニック、ジョン・プレジャーが1964 年のル・マンで熱効率指数賞を獲ることを目的に組み立てたというもの。モンレリーでのレースデビューでは、まだ新参ドライバーだったジャッキー・スチュワートがポールタイムを獲得し、確かな手応えを掴んだが、続くニュルブルクリンク1000kmでマイク・スペンスがプラクティス中に派手なクラッシュをしでかしたために、ル・マンに出場する夢は叶わないまま終わった。

しかし、もし出場したとしてもIWR のクーペはル・マンで栄光を掴むことはなかっただろう。なぜならル・マンで活躍するには特別なギアレシオが必要なのだが、そういうギアは販売されていなかったからだ。標準のギアで走った車はわずか2周で壊れた。


 
ル・マンを走れなかった金色のエランは修理されたあと個人の手に渡る運命を辿る。最初の個人コーナーはイギリスのヒルクライム・チャンピオン、デイヴィッド・グッドで、1982年からヒンズー教の偉大な導師ポール&ジューン・マティとともにヒルクライムで長いこと成功を収めることになる人物である。マティの手に負えなくなった車を彼に代わってサーキット走行用にレストアするマーティン・ストレットンという男も重要人物だ。

彼は自慢げにこう言う。「気がついたらポール・マティとは30 年の付き合いだよ。今では親友の仲だね。僕がオリジナルの26Rを手に入れてから10 年ほどたった頃、そう、今から10 年くらい前かな、僕がその車のヒストリーをとても気に入っていることを知っていたポールは、もし自分がそれを買うとしたらオリジナルのスペックに戻してレースに出られるようにするな、といつも言っていたよ」
 
そのレストアにはヒビの入ったウィンドスクリーンを取り替えることも含まれていた。これは正確に言うと"切って詰める"のではなくて"縮ませる"のだが、これはエランならではの手法でもともとの製造クオリティーがこうさせたのだそうだ。「1960年代のアルミ溶接っていうのはあまり人に見せたくない種類のアートなんだ」と語るストレットンはさらにこう続けた。「でも、ウィリアムス&プリチャードの仕事は素晴らしいんだよ。溶接痕は金属の上にできたシミとか汚れかと見紛うほどきれいで、表面を指で触ってもわからないくらいなんだから」

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:James Elliott 

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