ベントレー神話の主人公が紡ぐもうひとつの神話

Images: Bentley Motors

北に位置する島国の英国は、時として思慮深い人を育むように思われる。ここでは、そう感じさせる事例のひとつ、ウルフ・バーナートによる巧妙な神話創りに迫ってみたい。

 1978年8月。夏休みに1カ月ほど欧州をまわった。英国にて予定のない週末、招待に応じ父の古くからの友人宅を訪ねた。父の友人夫妻と普段は寄宿学校の16歳と14歳の娘という家族構成以外、予備知識なしの往訪だった。話す言葉を聞かずとも、英国におけるクラスは身長でわかる。良い家の人たちは往々にして背が高い、と母が話していたのを思い出した。捜査官テニスンを演じるステファニー・マティーニを上品にした感じの16歳の長女だけでなく、14 歳の妹も身長は既に170cmを超えていた。
 
 荷を解き、午後の紅茶の席。初めて訪れた英国の感想や日本の近況から、話題は趣味のことに。クルマが好き、と伝えると、一瞬にして空気が変わった。どのようなクルマが好きなのか、と、おざなりではなく、その場の全員が興味津々の様子。いつもなら「ロータス」と言うところ、その時は何故か、咄嗟に「ベントレー」と応えてしまった。
 
 すると悪い呪文でも口にしたかのように、息をのむような静寂。そして長身のご主人は奥に消えた。気の遠くなるほど長い時間、実際には数分だろう、の後、一枚の写真を手に戻ってきた。その写真にはふたりの紳士が写っている。右の人はW.O.ベントレーではないですか。左の方はわかりません。と写真を見ながら小声でつぶやき、ふと顔を上げると、皆が笑顔になっていた。左の紳士はその家の先代で、ベントレードライバーズクラブ(以下BDC)の有力なメンバーだったとのこと。先代からのベントレーは現在も健在、その時はたまたま家になく、残念そうだった。
 
 ご主人とふたりの娘から、見てほしいものがある、と屋敷の裏手に案内された。昔は厩舎だったような納屋が幾棟かあり、そのひとつの扉を開けるとオースチンセブンと思しき戦前車が置かれている。これはわたしの、と16歳の長女。隣の納屋にも同じようにオースチンセブンがある。こちらはわたしの、と14歳の妹。それぞれ、余暇に自分で修理している由。走るようになったとしても免許は無いでしょ、と訊くと、敷地内を走らせるのに免許はいらない、との弁。無粋を恥じた。
 
 就寝時、ご主人が、ベッドサイドにナイトキャップを用意した、という。わたしは全く飲まないので儀礼的に礼を述べて、あてがわれている部屋に戻ると、ベッドサイドにはベントレー関連の書籍が積み上げられていた。みたことのない本もある。しかもそれらのほとんどに、W.O.の署名が入っている。これではナイトキャップどころか、眠ってなどいられない。
 
 翌朝、ナイトキャップの感想を期待するまなざしに、本に夢中で徹夜したと話すと、どれでも好きなだけ持っていきなさい、とご主人はいたって真顔である。W.O.サイン入りの稀覯本を頂戴するわけにもいかず、固く辞して奥方とふたりの娘とともにヒースローに向かった。そこはロンドンからクルマで2時間ほど、ヒースローまで約1時間半のドライブである。夫人が運転するのはごく普通の英国製中型サルーン。ところが、屋敷の周辺ではすれ違うクルマのほとんどが挨拶をしてくる。BDCの会員とは、代々がベントレーに乗っているだけでなく、地域の人たちから敬われるような存在であることを痛感した。
 
 さて、長々とBDC会員の家での思い出話をしたのにはわけがある。就寝前のひと時、ご主人が語るベントレーの話に、ウルフ・バーナートという人名が出てきた。恥ずかしながら、わたしはその時までウルフ・バーナートを知らなかった。レースに全く興味がない、ことは言い訳にならない。ご主人が神話を語るがごとく何度も口にしたウルフ・バーナートという人物に、興味を持つようになった。

文:板谷熊太郎 写真:ベントレー モーターズ Words: Kumataro ITAYA Images: Bentley Motors

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