F1レーサー ニキ・ラウダという伝説

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伝説に残るレーサー、ニキ・ラウダが亡くなってから4ヵ月が経った。(命日5月20日)

死してからチャンピオンの座に就いたヨッヘン・リントに続く2人目のオーストリア人F1チャンピオンである。先人をも上回る3回のチャンピオシップ獲得はそれだけでも偉業だが、驚くべきはそのうちの2回があの事故のあとに獲得したという事実だ。


ラウダを語るにあたって、あの忌まわしい1976年8月1日のドイツGPでの事故を避けて通るわけにはいかない。舞台はニュルブルクリンク。全周22.8kmに及ぶテクニカル・コースは無数のコーナーやバンピーな路面から構成され、以前から危険性が指摘されていた。コース距離が長いためにポストの間隔も広いことが緊急時に対応できないなどが問題点だった。F1での安全性に深い憂慮を示してきたラウダも、ここでの開催を再検討するよう要望してきたひとりだが、この年もそのままレースは実施された。

そしてその危険性を自ら証明するような悪夢が起こった。満タンに近いフェラーリに乗ったラウダはレース序盤に激しくクラッシュ。発火した車から抜け出せないラウダは長い間炎に包まれた。後続のドライバーが車を止めて駆け寄るも燃えさかる炎の前に為す術もなく、ようやく消火器をもって駆けつけたマーシャルが事故現場に到着するまでに絶望的な時間が経過した。

 
救急病院に搬送されたラウダは一時危篤状態にあったが、奇跡的に命をとりとめることができた。だがヘルメットの下の頭部は焼けただれ、数カ所の皮膚移植手術が実施された。最も危惧されたのが熱気を吸い込んだ肺の損傷だった。ここで次の奇跡が起こった。誰もがラウダは継続して走るのは無理だと諦めていた。しかしラウダ自身は違った。圧倒的にリードしてきた76年シーズンをケガで棒に振ってたまるものかという強い精神力がすべての源だった。8月の2レースは欠場したものの、次の9月12日イタリアGPには出場することを決めたのである。もちろん1カ月やそこらで完治するわけがない。血の滲んだ包帯を取り替えながらの出走だった。

それでも4位入賞、続くカナダでは8位に終わったものの次戦アメリカでは3位表彰台に立ち、並み居る人々を驚かせた。その間、チャンピオンシップで2位につけていたジェームス・ハントはドイツ以降の6戦で4勝を挙げ、わずか3ポイント差につけていた。残るは最終戦、GPの名称こそ付かなかったが、富士スピードウェイで開催された日本初の正式なF1レースである。

両者の予選でのタイム差は100分の1秒、決勝での接戦が予想された。だが決勝は生憎の土砂降り。この日もレースの安全性を主張しながらも受け入れられなかったラウダは、スタートこそ切ったものの2周目にピットに入りそのままレースを終えた。無念にもこの年のチャンピオンは逃すことになったが、この判断はその後ラウダの人生を大きく左右することになる。批判もされたし、フェラーリとの関係もギクシャクしたものとなり結局は袂を分かつことになるが、その後ロン・デニスに声をかけられてマクラーレン入り。そこで二度のチャンピオンに就くことを考えれば幸運への道へと向かう分岐点ともいえた。

しかしその分かれ道となったあの日、彼にはどうしてもレースを続けられない理由があったことを忘れてはいけない。むき出しのコクピットで強い雨の中を高速走行するとどうなるか。ヘルメットを叩きつける雨に対して人はみな無意識に瞬きをする。しかしやけどで瞼を思うように動かせないラウダはフェラーリの中で瞬きすることさえできなかったのだ。人は退くことを決断するのも勇気だと、ラウダはあの日教えてくれたのである。

オクタン日本版編集部

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