自動車デザインを変えた男 パトリック・ルケモン 後編

Archive photography: Ford, Renault, P. le Quément

アメリカ・フォードに応募したパトリック・ルケモンは、イギリスはエセックス州ダントンにある欧州フォードにインテリア・デザイナーとして採用された。1968年のことである。同社に入って最初のサクセスはカプリMk.2のインターナショナル・コンペで、彼のプロポーザルが選ばれたことだろう。残念ながら最終モデルにはならなかったものの、コンペでの勝利が彼をエクステリア・デザイン部門へと導いた。

この時期に、卓越した芸術的センスとビジネスの融合というルケモンのルーツがある。彼がチーフに就任してからのルノー・デザインのドラマチックな変化の根は、このとき植えつけられた。一方で1958年から30年近くフォードに在籍し、最終的にデザイン担当副社長、ウーヴェ・バンセンとの結びつきを強めたのもこの時期のことだ。当時、彼は欧州フォードのチーフ・インテリア・デザイナーだった。
 
「インテリアについていえば、いつも私の案が採用されたわけではありません。ただひとついえることは、バンセンは私の考え方を気に入っていたのだと思うのです」

「バンセンの考えは明快でした。彼はデザイナーが芸術家であることを望まなかったんです。アーティストを脇に置いて、ビジネスマンの方向にシフトさせたがったですね。それで私にMBA(経営学修士)を取得しろといいだして⋯。これを断ることはできなかったですね」
 
2年かけて仕事と両立しながら学び、1971年にMBAを取得。これによりルケモンの影響力は確実に高まり、ケルンのメルケニヒにあるフォード・デザイン・スタジオを任された。ここで彼は、後に伝説の人となるボブ・ラッツと知り合っている。

現在、GMの副会長となったラッツは、当時、ドイツ・フォードの販売/マーケティング部門を統括していた。デザインに精通した"カー・ガイ" のラッツは、しばしばデザイン・スタジオに足を運び、バンセンやルケモンと親交を結んだ。 バンセン(現在はデザイン担当副社長)の昇進にともない、彼の後釜にルケモンを据えたのもラッツである。「この時から私のキャリアは流星のように進み始めた」とルケモンは回想した。

編集翻訳:由比夏子 Transcreation: Natsuko Yu Words: Guy Bird 

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