50年以上もバラバラの状態で放置されていたベントレーの眩い復活 前編

Photography: Paul Harmer

50年以上もバラバラの状態でロンドンのある家に放置されたていた"ハウス・ファインド"ベントレーは、今再び素晴らしい往時の姿を取り戻した。ジェームス・エリオットがリポートする。

実はこの車は以前にも『Octane』の誌上に登場したことがある。とはいえ、もう一度じっくり眺めたとしても、それで思い出したとしたら、あなたに何か賞品を差し上げなければならないだろう。というのも、2015年に評判になった後、この1928年4 1/2リッターベントレーは徹底的な修復を受け素晴らしい変身を遂げているからだ。

この「UP2100」は"ハウス・ファインド"ベントレーとして世の中に広く知られている車だが、かつて誌上を飾った時は、まるでメカーノ・モデルのように再び組み立てられたばかりだった。自力で動くことができたとしても、とても操縦を楽しめるような状態ではなかったのである。

 
改めてその際の記事を要約しよう。2014年のある日、ベントレーのスペシャリストであるウィリアム・メドカーフは突然、ビー・ウォレス・ハートストーンと名乗る女性からの電話を受けた。彼女は亡くなった父親のスチュワートのロンドンの家を整理しようとして、父親の残した山のような自動車の部品を見つけた。彼女の説明によれば、キュー地区の自宅のあちこちに散らばった膨大な部品をもう一度組み立てれば父親の愛したベントレーになるはずだという。さらに判別がつかないもう一台の車の部品(おそらくはAC)も残されていたという。


 
急ぎ駆けつけたメドカーフは、貴重なパーツの宝の山を発見したが、それらはウォレスの家と庭のあちこちにめちゃくちゃに散らばっており、すべて組み立てるのは複雑なジグソーパズルに挑戦するかのようだった。しかしながら幸運なことに、パーツ類はすべて綿密に写真に収められ、注意深く記録されラベルを貼って分類されていた。

「すべてはそこに、その中のどこかにあった」とメドカーフは当時を振り返る。だが、そのためには散らかった家の中や雑草が生い茂った庭、物置小屋まで徹底的に、鑑識作業のような捜索を何度も行う必要があった。彼にはさらにツキがあった。ボディワークは失われていたのだが、地元の貸しガレージを訪ねてみたところ、山のような荷物の上に乗っかっていたのが、メドカーフが見たことがないベントレーのボディだった。
 
それはヴィクター・ブルームが製作した20台のベントレー・ボディのうちのひとつと判明した。ひとつは3リッター用、13台は4 1/2リッター、そして6台が6 1/2リッターシャシーに架装されたらしく、メドカーフが見つけたボディは唯一生き残ったものと推測された。
 
カムデンにあったヴィクター・ブルームの会社はほとんど知られておらず、あのビューリー・エンサイクロペディアのコーチビルダーの項目にもわずか2行しか説明がない。もっとも彼らの作品は1926年から29年まで、オリンピアでのロンドン・ショーに展示されていたことは確かで、明らかに高級車向けのボディの高いクラフツマンシップとでき栄えで評判を得ていたようだ。

ブルームはロールス・ロイスやビュイック、ミネルヴァ、イスパノスイザ、ドラージュやインヴィクタのシャシー用にボディを製作していたが、1930年代の初めごろにはコーチビルダーとしての事業を中止、1942年には完全に姿を消している。この4 1/2リッターのボディワークはドロップヘッドクーペ・スタイルであり、ファブリックルーフを持つものの、コンバーチブルではなくルーフは一年に数回だけしか開けないような設計で、荷物を載せるスペースもない。なだらかに下がるスポーティーな後部にはランブルシートが備わっている。

 
スチュワート・ウォレスは、貧しい学生だった1960年代はじめにこのベントレーを手に入れたが、走らせるにはかなりの金がかかるとしてしばらく放置、数年後レストアのために解体したが、作業は結局行われることがなかった。彼は新車のミニの半分ほどの金額を1962年に払ったらしく、130ポンドの手付金を受け取り、まだ220ポンドが残っていることを記したダン・マーギュリーズ(訳註:ロンドンの著名なクラシックカー専門店)からの請求書が残されている。また完全にレストアされた場合、ウォレスのベントレーは3万5000ポンドの値打ちがあると見積もった1981年のクリスティーズの査定書も残されている。


 
部品そのものと同じぐらい重要なのは車のヒストリーである。この車には非常に細かなサービス記録、マグネトーやキャブレターに至るまですべての部品番号がリストになって付属していた。もちろん番号はすべてマッチしていた。たとえばシャシーナンバーはUK3282、エンジンはUK3300、ギアボックスは3161である。この車はヘンリーズ・オブ・ナレスボローを通じて販売されたもので、最初のオーナーは北東部で船舶関係のビジネスで成功したウィリアム・ドックスフォードという実業家だった。ヨークシャーから北アイルランドを経てウォレスの手に入るまでの所有者の変遷をたどることもできる。
 
1928年ロンドン・モーターショーのヴィクター・ブルームのスタンドを紹介した『AUTOCAR』誌の古い記事も残されていた。それによると「サックスブルーとクリームセルロースの4 1/2リッタークーペは非常に魅力的。サックスブルーの革内装はヘッドライニングとマッチしている」とあった。この記事は実際には別の車(XV7381)を紹介したものだが、スタンドに飾られていた車をその場で買おうとしたドックスフォードは既に売約済みと聞き、まったく同じ仕様の車を注文した。それがUP2100である。

このエピソードを知った新しいオーナーは、もともとのスタイルとカラーに戻すことを決心した。そしてレストア後初めてのお披露目となったハンプトンコート・パレスでのコンクールデレガンスで審査委員たちの心を奪ったのである。レストアとオリジナル性の維持が見事に融合した結果と言える。外観では美しく新車のように見えるが、このUP2100を実走行可能な状態にするには、慎重で時には異例の作業が必要だったのである。たとえばヤングスブラザーズのバッテリーは6 1/2リッター用で4 1/2リッターの標準品ではないが、シャシーを調べると後で改造されたものではないようだった。標準スペックに戻そうという考えはなかったのか?

編集翻訳:高平高輝  Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: James Elliott

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事