自動車における本当のアートと呼べるものとは?デザインとアートの境界線

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過去と現在の違いの一つが、昔はデザインに著作があり、誰のサインが入っているかが価値の裏付けだったのですが、今はそうではない。車も色々グレードがありますが、この同質化する自動車業界の中で顧客が何をもって購入するかというと、やはりブランドなのです。「〇〇が作ったマセラティを買う!」ではなくて「マセラティブランドの、この車を買う」という考えのもと、満足感を得たりしている。
 
一番わかりやすい例でいうと、VWの傘下にイタルデザイン・ジウジアーロがありますよね。後にジウジアーロ氏自身は会社を辞します。それでもメーカーはジウジアーロデザインをアピールして販売することがあります。私はジウジアーロ本人がいないブランドは、持ち続ける価値がないとさえ思っています。デザインの大元があるかないかは大事。それが、芸術品であるかどうかの、私の中でのひとつの尺度です。
 
現代ではブランドというものが常に前面にあり、昔は価値のあったデザイナーやアーティスト、アルティジャーノはなかなか注目されません。本来それこそが芸術を構成している重要な要素であるのにかかわらず、それがない。自動車について私の夢としては、出来上がったデザイン、もしくはコンセプトのちゃんとした出自のわかる形にしていきたい。つまりその作品のパパ・ママがわかるものを多くの人に見せたいと思っているという意味です。
 
コンコルソ(コンクールデレガンス)も、戦後くらいまでは新しいものを生み出して世の中に発信する場所でした。それが近年では出展車のほぼ90%はクラシックカーや昔のものを披露するイベントになってしまっている。今では当たり前になったクラシック品評会ですが、実は本来の意図とはズレているのです。クラシックカーを1割に抑えて…といったくらいのバランスが、本来のコンクールデレガンスのあるべき姿ではないでしょうか。
 
私が子供のころは毎年トリノのモーターショーに行くのがとても楽しみでした。そこには新しいものや新しいアイデアがたくさんありました。そして小会場もわかれていて…本当に楽しかった。そして数ある中から生まれたカロッツェリアの名前がベルトーネだったり、ピニンファリーナだったりするのです。そのサロンに行くことで普段見られないようなものを目にして未来に想いを馳せたりしながら、非常に心を躍らせて通っていたものでした。その時代が本当に懐かしい。
 
今の私の夢を言い換えれば、結果として「昔に戻る」ということになります。昔の人々は未来を見ていた。だから、今の人々も未来を見て、もっと夢をもってほしい。そしてそれを共有したいのです。今はモーターショーに行っても、昔のものとは全く違う企画に変わってしまった。心躍るようなものがない。ショーカーやコンセプトカーがあったりしますが、それが未来につながっていないというか、それよりも量産できるデザイン、グレードダウンしたものが多い。そういう意味でいうと、未来を見せていない。足を運んでも面白くなくなってきています。
 
今日は予期していなかった質問をいただきましたが、この質問を受けたことによって、自分の考えを整理することが出来ましたし、日本のマーケットへの理解も深まりました。 
 
今の世の中、芸術と呼べる車を作るには職人が足りませんし、膨大なお金がかかります。そういう意味ではメセナというかスポンサーが少なすぎる状況であり、本当に難しい。自分であれ、誰かほかのデザイナーでもいいので、芸術と呼べる車作りをもう一度実現することが出来れば、それが私の夢となります。そしてそれこそが、自動車における本当のアートと呼べるのではないでしょうか。

オクタン日本版編集部

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