車好きでなくても楽しめる!『フォードvsフェラーリ』2020年1月10日全国ロードショー

©2019 Twentieth Century Fox Film


 
実はフォードでは買収交渉と並行して英国でマシン開発が進められており、GT40は翌1964年にはレースデビューを果たしている。ただしGT40はレーシングカーとして未完成な部分が多々あり、参戦初年度は天才マウロ・フォルギエリがル・マン用に開発したフェラーリ275Pに対し完敗。翌1965年には1959年のル・マンで優勝経験のあるキャロル・シェルビーをフォードのプロジェクト責任者に据えてチーム再編を図るが、モータースポーツの真意を汲むことができないフォード首脳陣との葛藤があり、また勝利を掴むことができず連敗を喫した。


 
翌1966年にシェルビーは、マシンの開発過程で最も信頼できるケン・マイルズをファーストドライバーに起用した。彼はロイド・ルビーと共にまずデイトナ24時間で勝利。次にフォードGT40 Mk.IIに乗りセブリング12 時間においても優勝する。数カ月後のル・マンではフェラーリ勢全車がマシントラブルでリタイヤしていく中、ケン・マイルズのチームは圧倒的な速さで周回を重ね、レース終盤までル・マンでの勝利が確実視されていた。
 
だがフォードの経営陣から、3台のGT40 が一緒にフィニッシュラインを横断する宣伝写真を希望され、キャロル・シェルビーに減速するように指示が出る。果たしてマイルズが後続2台のGT40 を待ち、ほぼ3台は同時にゴールラインを越えた。しかし、より後ろからスタートしたマシンのほうが長い距離を走ったとされる当時のレギュレーションにより、優勝はブルース・マクラーレン/クリス・エイモンのものとなった。1966年ル・マンの栄冠は、最後にケン・マイルズの手をすり抜け、またデイトナ、セブリングを含む耐久レース3冠という誰も為しえなかった偉業も、泡沫のごとく消え去った。


 
ル・マンから2カ月余りが過ぎた1966年8月17日、猛暑の南カリフォルニアの砂漠。リバーサイドインターナショナルレースウェイを走るマイルズの姿があった。
 
シェルビーアメリカンはケン・マイルズをテストドライバーに起用して次期マシンJ-carのテスト開発を行っていた。フォードは1966年シーズンをGT40Mk.Ⅱで戦いながら、次世代マシンの開発を進めていたのだ。このマシンはMk.Ⅱの弱点であった車重の軽減を主眼としており、フレームはアルミハニカムをアルミの薄板でサンドイッチする構造を採用。またコクピットの幅を狭めて空気抵抗の低減も図られていた。
 
サーキットには息子のピーター・マイルズも友人と共に訪れていたという。ケン・マイルズの、一日の長い仕事は終わりかけていた。125mphくらいの緩やかなスピードでコーナーに差し掛かった時、マシンは急にコントロールを失ってコースアウトをしてしまう……。
 
マシンの性能競争やクラッシュシーン、レースの駆け引きだけをテーマにしたような、そんな単純なストーリー展開では決してない。人間と人間の深い関わりこそが、この映画の見所である。

文:堀江史朗(オクタン日本版編集長) 写真:©2019 Twentieth Century Fox Film Corporation Words: Shiro HORIE (Octane Japan) Images:©2019 Twentieth Century Fox Film Corporation

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