美しく、速い 傑作マシン│イタリアが生んだ伝説のラリーカー「037」誕生秘話

Photography:Max Serra

ランチア037は世界ラリー選手権で優勝した最後の後輪駆動モデルだ。ここで紹介するのはその開発に用いられたオリジナルカーで、開発者本人によってレストアされた1台である。

"037"はイタリア語読みでゼロトレンタセッテ、つまりひとつの単語である。これが車の名前で、そのブランドだけでなく当時のラリー界まで象徴する言葉であることは、いまさらいうまでもない。エンジンパワーが二輪だけに伝えられるランチア・ラリー037は、世界ラリー選手権で優勝した最後の後輪駆動モデルであり、伝統的な後輪駆動の"ダビデ"が、四輪駆動のゴリアーテに放った最後の一撃である。

そして、当時のラリードライバーは誰もがこの情熱的なモデルに恋をした。その慈悲深さゆえに、ジョルジォ・ピアンタは037のことをマンマ(イタリア語で「お母さん」の意味)と呼んだ。しかも037は美しく、速く、信頼性も優れていて、グループB時代でもっとも特徴的かつもっとも有名なラリーカーとなった。エンスージャストであれば037というだけで通じる。エルヴィスといえば誰もがプレスリーを思い浮かべるのと同じことだ。



グループBのホモロゲーションを取得するため、たった200台ほどの037が生産された。しかし、見紛うことなきマルティーニ・カラーに彩られ、トップドライバーに操られたワークスマシンは、いずれもラリー界の歴史にしっかりとその名を刻み込んでいる。なかでも、とりわけ特別な037がある。シャシーナンバー1。メーカーが製作したプレートには、ZLA.151AR0.0000001の文字と並んで、Abarth SE037-001と打刻されている。これこそ、ランチア・アバルト・ラリー部門のボスであるセルジオ・リモーネの手で製作された037の第1号車である。このときリモーネは32歳。そして引退する際、彼はこの"037 No.1"を救いだし、やがて自らの手でレストアを施したのである。あとはリモーネに、この傑作マシンが誕生した背景を語ってもらうことにしよう。
 
「ラリー界がたいへんな混乱に陥った1979年の終わりから1980年初頭にかけては、非常に困難な時期が続きました。当時、私はランチア・アバルト・ラリーの技術部門で責任者を務めていました。なぜなら、131ラリーを生み出したマリオ・コルッチは78年の終わりで解任されており、ランチア・デルタS4を手がけることになるピエール・パオロ・メッソーリが入社したのはこの後のことだからです。おかげで、人から羨ましがられながらも、重大な判断を下さなければいけないリスキーなポジションに私が就くことになりました。
 
規則が変わろうとしているのに、FISAの対応は後手後手に回っていました。作業は非常に遅れていたといっていいでしょう。しかし、新規則が施行される1981年末もしくは82年の初頭に、私たちは完璧なタイミングで行動していなければいけなかったのです。ラリーカーが将来的に四輪駆動とターボ・エンジンを採用するであろうことは私たちにもわかっていました。ただし、そういった技術を使いこなす準備が、私たちにはまだ整っていなかったのです。どちらの技術に関しても、私たちの力量は期待されるレベルに到達していませんでした。したがって、それらをもとにラリーカーを作っても敗北を喫することは明らかでした」


 
リモーネと彼の部下たちは、いくつかの可能性について検討を加えた。たとえば、ロードゴーイングカーのフィアット・リトモをルノー5ターボのようにミドシップする案であるとか、ランチア・デルタのフロントにフェラーリ・エンジンを搭載してトランクアクスルとし、ボディをチューブラー・フレームで構成する案などであった。ちなみに036と名付けられた試案は、やがてデルタS4として世に送り出されることとなる。


・・・次回へ続く

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:Massimo Delbò Photography:Max Serra 取材協力:マックス・ジラード(ジラード&Co. )、マーカス・ウィリス

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