ランチアが生んだ名マシン「037」第一号車を製作した人物に聞く誕生秘話

Photography:Max Serra


 
「手始めに131ラリー用の自然吸気エンジンを搭載したところ、驚くほどの速さを示しました。ただし、車の製作をピニンファリーナに任せれば、計画が間に合わなくなるのは明らかです。そこで私は、最後に残った未使用のグループ5シャシーを、インジニャーレ・ジャンパオロ・ダラーラと彼の有能なチームに託すことを決めました。彼らの手元には、グループ5仕様のモンテカルロを製作した際の資料と治具がまだ残っていたのです。そして1980年9月、私の車は準備が整い、クリスマス前にテストができることとなりました。最初のスケッチを描いたのが1980年の半ばだったことを考えれば、まったく悪くない進捗状況でした。
 
ボディのスタイリングに手をつけたのは、この頃のことです。デザインを担当するのはピニンファリーナに決まっていましたが、彼らが関わるようになる前に少しでも作業を進めておきたかったのです。私はフェラーリ308が大好きだったので、丸いテールライトなどの特徴的なディテールをいくつか盛り込みました。私にとって重要だったのは、製作やメンテナンスを容易にするため、各部に手が届きやすいようにすることでした。おかげで、ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンテが最初に見たときは悲鳴を上げたほどです。


 
私はデザイン面でいくつかの失敗をしていました。ヘッドライトはフィアット131用のサイズが異なるものを使い、径の大きなほうを外側にレイアウトしました。これを見て、フィオラヴァンテははっきりと言いました。『これでは車が悲しそうな表情をしているように見える』とね。彼は正しかったと思います。最終的なボディのデザインはエンリコ・フミアが担当してくれたおかげで、とてもいい仕上がりになりました。 

コクピット後方の高い位置にエアインテークを取り付けるのは私の発案でした。ピニンファリーナが描いた最初のスケッチでは低いところにつけられていましたが、これではホコリや泥で目詰まりを起こしてしまいます。そこで高い位置に移動してもらいました。格好よさの点からも、このほうがよかったと思います」
 
ほどなく、ロードゴーイングバージョンであるストラダーレの開発に用いる2台目のプロトタイプが完成。しばしば、2台が一緒に走行するシーンが目撃された。1981年1月までには1号車がピリンファリーナの手で風洞実験にかけられるようになり、いくつかのスポイラーやウィングが試される。そして3月にはヴィッツォーラ・ティチーノに建つピレリのテストコースでの走り込みが始まった。


・・・・次回へ続く

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:Massimo Delbò Photography:Max Serra 取材協力:マックス・ジラード(ジラード&Co. )、マーカス・ウィリス

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