2台を使って徹底的にテスト│ランチア037の歴史 パワーユニットの検討

Photography:Max Serra

この記事は『ランチアが生んだ名マシン「037」第一号車を製作した人物に聞く誕生秘話』の続きです。

ランチア・アバルト・ラリー部門のボスであり、ランチア 037の第1号車を製作したセルジオ・リモーネに誕生の裏話を語ってもらう。


「ラリーカーとロードゴーイングカーを開発するため、2台はとても酷使されました。あるとき、メソーリが150kmほど離れたピアチェンツァまでストラダーレを走らせることになりました。彼は自分のジャケットをフロントのトランクに仕舞っておいたのですが、目的地に着くと左の袖しか残っていません。あるスピードに達するとトランクリッドが浮き上がってしまうことが、その原因だったようです。もともと、これはグループB 用の車で、必要な台数が極めて短期間で製作されたことを忘れないでください。快適性でいえば、ストラダーレの視界は不十分で、騒音は耳の痛みさえ覚えるレベルに達していました!
 
1981年の4月末、ジョルジョ・ピアンタのドライビングで素晴らしいテストができました。場所はトリノ近郊にあるフィアットのテストコースで、ラ・マンドリアという名前で知られています。ここは公園の一種で、一部はダートコースですが、美しいワインディングロードが続いています。ピアンタはヴァルター・ロールやマルク・アレンといったワークスドライバーと比べても、いつもベストラップを叩き出す実力を持っていました。彼はラ・マンドリアで、またたく間に037と恋に落ちてしまったようです」
 
1981年5月11日、カンポ・ヴォロでNo.1カーにターボ・エンジンが搭載される。モンテカルロ用の1750ccエンジンをベースにしたこのパワーユニットは、パワフルだったが数多くの技術的課題を抱えていた。なかでも、大きなサイズのターボに起因するターボラグの問題は極めて深刻だった。これを受けて、アバルト内部ではスーパーチャージャーを装着したエンジンの可能性が取り沙汰されるようになる。このあたりの経緯をリモーネが語ってくれた。
 


「私たちはターボチャージャーよりもスーパーチャージャーのほうを熟知していました。1977年以降、アバルトの社長を務めていたのはマエストロのアウレリオ・ランプレーディでした。彼のことを紹介する必要はないでしょう。強烈な個性の持ち主で、誰も彼とは議論をしたがりませんでした。1950年代にフェラーリでその研究をして以来、安定した過給圧が得られるうえに軽量なことから、スーパーチャージャーこそ理想の解決方法だとランプレーディは信じていました。

唯一の問題点は、当時スーパーチャージャーを手がけるメーカーがなかったため、自分たちで製作しなければいけなかったことです。私たちはこの研究に邁進し、ターボチャージャーとスーパーチャージャーのコンビネーションまで開発しました。これは後にS4でそっくり活用されることとなります」


1982年1月、新たに開発されたスーパーチャージド・エンジンをテストしたマルク・アレンは、数ラップしただけで車を停めるとこう言い放った。「ノープロブレム」 ランチアはまだ生産が始まっていない4月1日に037のホモロゲーションを申請。ラリーチームの監督であるチェザーレ・フィオリオがこのようなリスキーな判断を下したのは、なによりも時間を節約するためだった。No.1カーを用いたテストと開発は完了すると、ワークスチームのリザーブカーとしてエントリーされた。マルティーニ・カラーにペイントされたNo.1カーがギリシャに到着したのは1982年4月の第一週。アクロポリス・ラリーにぴたりと間に合うタイミングだった。

その後、役目を終えたNo.1カーはアバルトのビルのすぐ脇に停められ、そのまま忘れ去られた。


・・・・次回へ続く

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:Massimo Delbò Photography:Max Serra 取材協力:マックス・ジラード(ジラード&Co. )、マーカス・ウィリス

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