LA FESTA MILLE MIGLIA 伝説の競技に想いを馳せる

堺 正章 X 増田 晴男  X Mille Miglia(ミッレミリア)

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1927年から1957年まで、30年間に渡って開催された伝説の公道自動車レース。イタリア北部のブレシアを出発。そのまま南に下り、フェラーラ、サンマリノを経てローマへ。そしてローマからはさらに北上して、ブレシアへ戻る。イタリア全土をくまなく走り廻ることから付けられた名称が「1000マイル」である。

開催当時、欧州メーカーはこぞって自社マシンのパフォーマンスを誇示する場所としてミッレミリアに大きな力を注いだ。参加チームはマセラティ、アルファロメオ、ランチア、オスカ、OM、スタンゲリーニ、フィアット、ブガッティ、アストンマーティン、ベントレー、MG、メルセデス・ベンツ、アウトウニオン、ルノーなど。第二次世界大戦前には国を挙げての支援を施すほどの熱の入れようだった。だが世界大戦の勃発により1941年から1946年までは開催は中断。ただ終戦わずか2年後の1947年には早くもミッレミリアは再開されることになる。そこにはチシタリアやジャガー、フェラーリ、ポルシェ、ペガソ、サーブといった、戦後の新興ブランドが数多く参戦。1957年に観客を巻き込む大事故が発生し、やむなくイタリア政府は以降のレース開催の中止を命じたものの、1977年には、当時参戦した実車とその同型車のみが参加できるタイムトライアル方式のクラシックカーレース、ミッレミリア・ストーリカ(Mille Miglia  Storica)として復活を果たした。


さて、日本で開催されているラフェスタ ミッレミリアとは一体どういうものなのか。

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1992年にフジテレビジョンの事業部が、本国ミッレミリアを招き、「La Festa  Mille Miglia」を開催したことに端を発する。当時はイタリア本家ミッレミリアに出場していた50台のクラシックカーを欧米から空輸。日本から参加の10台を合わせた計60台での開催となった。その企画を果たした人物こそが、現在ラフェスタ・ミッレミリアを主催するフォルツァの増田晴男である。当時フジテレビジョンにいた増田は1989年に本国ミッレミリアを視察。90年には番組作りを通じて親交のあった堺正章氏にリポートを依頼。そしてついに1991年には、コ・ドライバーとして堺正章氏がイタリア本国のミッレミリアに参戦することになる。

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1997年、ヴェテランカークラブ東京の事務局長を担っていた増田晴男がフジテレビジョンから独立し、日本で唯一国際クラシックカー連盟から公認を受けた本格的なクラシックカーレースとして、新たに「La Festa Mille Miglia」を開催することになった。

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現在日本では数多くのクラシックカーイベントが開催されているが、その中でも最も権威のある、日本を代表するクラシックカーラリー、ラフェスタ・ミッレミリアについて、堺正章氏と増田晴男氏のお二人に立ち上げからの想いと、これからについて語っていただいた。

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すべてはイタリアでの取材から

増田氏(以下増):僕はフジテレビに1970年~1996年まで在籍していました。堺正章さんとの最初のお付き合いはクラシックカーイベントでも、もちろんミッレミリアでもなく、MUSIC FAIRという歌謡番組などです。堺正章さんは、すごい人気でしたからねぇ。堺さんとは他にもレギュラー番組をやらせていただいたり。それが知り合ったきっかけです。

堺氏(以下堺):その時に増田さんは番組のプロデューサーをされていてね。

増:そうですね。クラシックカーに関わるようになったのは、その後の話です。ご存知の通り1977 年にイタリアでミッレミリアが復活して隔年で開催されるようになりました。僕は以前から興味をもっていたので1989年に会社に取材の許可を取って視察に行きました。それがとても衝撃的で。まず、子供っぽいひとがいない。大人が輝いている。車がどれも美しい。観客のファッションやスタイルも当時の日本とは全然違っていてちゃんとしている...。このミッレミリアを、どうしても日本で開催したいと思い、まずは特別番組を制作しました。
 当時の日本では、マラソン以外に一般公道を使用したイベントは成立しないという定説がありました。先進国ではF1の公道レースも普通に開催される中、せめて美しいクラシックカーが走り抜けるイベントが出来たら本当に素敵だなって思ったのです。
 イタリアのミッレミリアでは白バイのサポートが付きますが、日本では簡単には協力を得られそうもなかった。たぶんそれは一部の人間の楽しみに偏ってしまうからという勝手な発想があるのかもしれません。
 クラシックカーを楽しむひとは、単に事業で成功しただけではない、心の豊かなひとが多いと信じました。なぜ僕がスタートに原宿の明治神宮を選んだかというと、若者がいっぱい集まっているから。そこにカッコいいオジさんが来る。それを見ながら、いつか自分もあんな風になりたいと頑張ってほしいと思ったのです。
 さて、僕はテレビマンですから、まずは番組で紹介しなければいけない状況になります。ミッレミリアだけを紹介しても編集が難しいので、イタリアの町の伝統を伝えながら編集を進めました。
 あの当時の取材はいろいろとユニークでした。たとえば渡辺貞夫さん。彼がワーナーミュージック時代に「MAISHA/マイシャ」というアルバムを出されていたのですが、その時のジャケットが地元の子供のアップで、それがすごくきれいだった。それで、「クラシックカーは興味ないだろうけれど、人を撮ってほしい」とお願いし、写真家として91年と92年にミッレミリアに来ていただいたのです。その時の写真は、第1回から第10回大会までのラフェスタ・ミッレミリアのオフィシャルポスターに使用しました。堺さんも1990年の取材の帰途にはご自身で参加してみたいという話になったのです。
 そうなると、いよいよ現地イタリアでの車探しになります。本国ミッレレミリアの復活に貢献されたモナコのマッシモ・コロンボさんという方がおられました。彼の奥様のブルネラ・コロンボさんが、マセラティやフェラーリ、ポルシェといった、素晴らしいクラシックカーをたくさん所有されていました。番組の契約などでもお付き合いがあったので、「何かクラシックカーを借りられないものか?」とミッレミリア事務局長に尋ねたら、マセラティ A6 GCSがあるよ、とのこと。堺さんが参加された1991年の初戦は、コロンボさんが運転をして、堺さんがコ・ドライバーでした。

堺:3日間とも全部雨だった、あの1991年ね(笑)。

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増:そうでしたね。翌年1992年には、同じくコロンボさんが所有されていたフェラーリ340アメリカでの参戦。3400cc 12気筒のアレです。その辺りから、堺さんはクラシックカーにハマってきたなというのが僕の記憶です。

堺:ミッレミリアを取材する立場から、逆に自分で参加することになった動機を聞かれることがよくありますね。ミッレミリアは1977年に20年ぶりに復活したでしょ。イタリアの交通事情が、ミッレミリアが始まった当時とはまったく異なってきていることに関係するのかもしれないけれど、とにかくその時からミッレミリアはスピードレースではなくなったのです。単に速さを競うのではなく、正確さとか、人と車との呼吸を試すような競技。つまり能力テストを楽しむようなラリーに変化したのです。これならば僕らのようなプロドライバーではない人間でも十分に楽しむことができる、そんな競技だと感じたのです。
 さすがにスピードレースとなると危険を伴うし、気持ちが退けてしまう部分がありますよね。それは僕にはできない。でも現地に取材に行って実際にクラシックカー約300台が並んでいる姿をみてしまったら、「この美しさはいったい何なのだろう!」という好奇心のような疑問がどんどんわいてきた。僕は当時、まだクラシックカーは不勉強でまったく分からないことばかりだったけれど、大人が日常のいろいろなことを忘れて、没頭できる何日かを過ごすというのは素晴らしいと直感的に思ったし、もしかしたら自分が体験してみたら、長く続けていけるのではないか、とかね。

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堺:たとえば食べ物の場合、興味本位で口に入れてみたけれど美味しくなかった、なんていうことがあるじゃないですか。人間はやっぱり興味が沸いたところで一度経験をしてみるべきなんですね。それで「おいしいなぁ」と思ったら続けてればいいし、しばらくすると味が合わなくなることもある。でもまずは自分で試してみないことには何も始まらない。そんなことだと思います。
 初めてのミッレミリアはコ・ドライバーとしての参加でした。雨の中をホロもない車で何100kmも走っていくなんてなかなか体験できないことだし、実際に相当の忍耐力も求められます。そして自然の中に身を投じていくということが、ひととしてとても大切な姿なのだと、僕はすごく感動しました。いつの間にか僕もイタリアのミッレミリアを、自分でハンドルを握って参加してみたいな思いはじめましたし、増田さんは日本でも本格的なクラシックカーラリーを始めるというから、それはもう、どんどんやりましょう!となったのです。
 もちろん日本にもクラシックカーのイベントはいくつかありましたが、イタリア本国の、あのスケール感はなかなか実現されていなかった。僕たちみたいな自由業のような仕事は、実は一番出場しやすいんですよ。ある所では無理をしても頑張ってスケジュールを調整する。そんなにしてまで出たいということならば、「あぁ、やっぱりこれが好きなんだ」という答えが自ずと出てくる。クラシックカーを観にきていただいている方々とは、手を振ったりしてコミュニケーションを取りながら楽しむ。でも実際に参加している僕らは、観客の皆さんの何十倍も楽しんでいるわけです(笑)。

増:1997年に日本で始めた当時も、もちろん一定のクラシックカーファンはいたと思うのですが、今ほどメジャーではなかったですし、実際に走らせて楽しむ人は極端に少なかった。所有されている方はたくさんいらっしゃいましたよ。ただ、それを披露する、きちんとしたステージがなかったんだよね。

堺:イタリアのミッレミリアに参加しようという方は、ほとんどいなかった時代ですからね。そもそもクラシックカー好きにはふたつの種類があると思っています。ひとつは飾って楽しむひと。いわゆるコレクターですね。このポリシーにも一理あって、つまり古いものなので大事にしなければいけない、動かしたらかわいそうだという考え方。でも僕らはもうひとつの考えで、車なのだから逆に動かさないとかわいそうだ、走ってこそ美しいというタイプです。うまく行こうが行くまいが、とにかく車を動かしていく。自分からわざわざ苦難の道にのめり込んでいく。こういったナチュラルな気持ちをもてることこそが、僕らは楽しいのです。

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堺:初めてステアリングを握って参加したクラシックカー競技は、1997年のイタリア、車はオスカ・ピニャーレでした。1,600kmを走り切れるかという不安よりも、楽しいワクワク感でいっぱいでした。ただし結果としては、標高2,000m近いところでクラッチをやられてリタイア。その坂とは相性が悪くて、それからも幾度かひどい目に会っています。コースが変わって今はもう通らないけれど、何度目かには、塩をまくようにしましたよ(笑)。本当に因縁の区間でしたね。いくら名車でも、僕よりも齢を重ねている車があるわけですから、壊れることがあっても仕方がない。まぁ壊れることも、クラシックカー競技に含まれた楽しみのひとつであると思うわけです。レース中は常に「何か飛び出してこないか」という少しネガティブな想像をもちながら走っています。何故なら、ブレーキがあまり利かないからです(笑)。どんなにペダルを強く踏んだって、どんどん前の車に近づいていくんですよ!

増:ノートラブルで、天気も最高!なんてことは滅多にない。意外と思い出に残るのは、雨が降って全身がビショビショになったり、トラブルが起きたりしたときの事。僕は今までイタリアのミッレミリアに16回出ていますが、完走は半分の8回くらいです。ただしリタイアをしても、家族との思い出を膨らませたり、楽しみ方は実はたくさんあります。

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老舗クラシックカーラリーのハードル

堺:40代は公私ともに忙しいので、クラシックカーに興味があっても、その楽しさに触れるチャンスをなかなか作れないというイメージがありませんか。実際にこういったイベントに参加したいと思われたら、ぜひ事務局へ連絡をください!(笑)

増:本当にその通りです。あと、希少で高額なクルマじゃないと参加できないのでしょう?とよく聞かれます。でも、そんなことはありません。もちろん年式の制限はあるけれど、たとえばお爺さんが乗っていた車を大事にレストアして参加するのも大歓迎です。参加車両の中にはものすごく貴重かつ高額なクラシックカーも確かにありますが、いろいろな車がひとつの土壌で楽しむのがラフェスタの醍醐味です。イタリア本国のミッレミリアでも「何でこんな車が参加しているの?」というケースもありますからね(笑)。それでもイベントの中では皆が主役なわけです。

堺:妙なアメ車が、いきなり参加してたりね(笑)。

増:クラシックカーは、メンテナンスをしっかり続けながら次の世代に受け継いでいくことが大切だと思っています。この頃の欧米では想像も出来ないほどクラシックカーの価格高騰が激しいようです。そうなってしまうと、どんどん若い人がそこから遠ざかっていく。ビギナーは、まず気軽に買える車で体験をして、のちに先輩の車を受け継いで乗っていく、そんな循環が出来れば素晴らしいと思います。いま近藤真彦さんが乗っているアルファロメオのコンレロは、最初は堺さんが乗っていました。堺さんはジュリエッタやフィアット508、マセラティ200SI、そしてマセラティ A6 GCS。最近では戦前のランチアラムダまで乗られている。
 僕は本当に堺さんを尊敬しているんです。堺さんはもともとイタリアのファッション、食、音楽などにも詳しい方で、洗練された大人の色気を持ちあわせている。若い人たちもひとつの目標になると思います。堺さんとよくお話しするのは、「車が良ければいい」ではなく、「人がすごく大切」ということ。持っている車がどんなに良くても、朝の挨拶すらできないことでは話にならない。またクラシックカーそのものをビジネスにしようという方も困ります。
 ラフェスタは多くのひとを受け入れる度量をもっていますが、培ってきた大事な雰囲気を壊すひとたちは恒久的に排除します。そうしないとイベントそのものがおかしなことになってしまいますから。その規律を守るためには、厳しい姿勢で臨んでいきます。そして、ここまで20年も続けてきた中、いつも堺正章さんが隣で支えてきてくれたことに、僕はすごく感謝しています。

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"線を踏む"という楽しさ

増:世界のクラシックカー競技の代名詞ともいえるPC競技ですが、あれは日本で始まったものだとは案外知られていません。もともと本国の競技は「プロヴァ・アビリータ」という能力テストだった。我々は短い区間において連続して線を踏み、その精度を測る競技を試みました。実際にやってみると参加者からはおもしろいと大絶賛。そこで、来日していたイタリア・ミッレミリアの競技委員長に、「本国でもこれを導入してみてはいかがですか?」ということになったわけです。つまり今のミッレミリアのPC競技は日本のラフェスタから生まれたのです。

堺:日本から輸出したということ(笑)。

増: PC競技(PROVE CRONOMETRATE)を、プロヴァ・クロノメタトーレ(計測テスト)として名称を変更しました。
 僕は1996年にフジテレビジョンを退社して、1997年に第一回ラフェスタを開催しました。鈴鹿からだけではなく毎年いろんなところを走りましたね。そしてついに福島の裏磐梯に出会ったのです。裏磐梯には磐梯山があります。そこには大きな猪苗代湖があります。会津に鶴ヶ城があります。イタリアのブレシアには東にガルーダ湖、北にアルプス、市内にお城があるように、磐梯にも自然と伝統があふれていて、これはイタリア本国の風景と同じだなと感じました。
 ただし3.11が起きてしまい、我々の第二の故郷がたいへんなことになってしまったのです。それで、今の関東甲信越ルートに変えざるを得なかった。

堺:3.11の震災によって我々は、福島に行くことができなくなりました。それまで、ずっと行っていた大内宿というのがあって、毎年山形屋さんという宿場町にお邪魔をしていた。そこにいるおばあちゃんと、毎回おそばを一緒に食べてから出発していたのです。今年のお正月に、もう103歳にもなるそのおばあちゃんから「なんでこっちに来てくれないの?」という年賀状をいただいたときには、さすがにホロっと来ました。そして、この話を同じ自動車を趣味とする唐沢寿明さんにしたところ、「それは行かなければなりませんね。僕も行きます」と即決。さっそく今年の四月末に、一泊でしたがそのおばあちゃんのところに会いに行ってきました。クラシックカーの趣味は、ただ自分たちだけが楽しめればいいというものではありません。そういう人と人との繋がりがあったからこそ、ラフェスタが今まで20間も続けてこられたと思っています。

増:僕は今までお世話になった被災地には何度も行っています。その度にお帰りなさいとか、また来てくださいと言ってもらえる。十数年もの間、ずっとお世話になっていて、ある日突然サヨナラなんて言えるはずがありません。何らかのかたちでこれからも福島やお世話になった人に何かをしていきたい。

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堺:大切なのは人とのつながりですよ。まず「車ありき」という考えでは絶対にダメです。
 僕は毎日ガレージでクラシックカーを眺めながら、なんでこういう車に魅かれるのだろうと考えています。最新のスポーツカーもたくさんあるのに、それらを見てもなかなかワクワクしてきません。それに対する明快な答えがなかなか自分の中で形成されません。
 ひとつ言えることは、文明社会の発展早期に作られたクラシックカー、しかもスポーツタイプの車には、匠たちの息吹や情熱みたいなものが強く感じられます。その圧倒的な存在感は、オートマチックな流れ作業で作られている現代の自動車とはまったく異なるもの。手間ヒマを掛けて創り上げられた車からは、当時の人びとの情熱や温もりがあふれているのです。
 この考えは僕の美学のようなものかもしれません。たぶんクラシックカーをお好きな他の方も、明確な答えは持ってらっしゃらないかもしれない。クラシックカーの世界は芸術と同じですよね。

増:これからのラフェスタの方向性について、若い世代や海外の方がどんどん参加できるようになればいいと考えています。参加台数を増やすことが目的ではなく、クラシックラリーの「楽しみの質」を上げていくという意味です。女性の参加者も、もっと増えてくると思いますよ。

堺:今のところアジアの中で、車を楽しむ文化については日本が一番頑張っていると思います。それは日本人が繊細で、美を追求する気持ちを強くもっているからでしょうか。でも、その楽しみが様々な国でも広がっていることを嬉しく思っています。
 クラシックカーラリーの世界は本当に奥が深い。単に博物館に旧車を観に行くのとはワケが違います。クラシックカーが走る姿を見て、ぜひいろいろな刺激を感じていただきたい。そして車そのものと、それを作り出した匠を愛する楽しさをわかってもらいたい。世の中がデジタルになればなる程、逆にアナログの楽しみを絶対に残さなければならない。ぜひもっといろいろな人と一緒に、この素晴らしさを分かち合いたい、そう思っています。

本文:オクタン日本版編集部  Text :Octane Japan
写真:桜井淳夫 Photo:Atsuo SAKURAI

※この記事はオクタン日本版Vol18(2017年6月5日発売)を転載したものです。本誌内において、増田晴男氏のお名前が一部春男と記載されていました。ここに訂正すると共にお詫び申し上げます。(オクタン日本版編集部)

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