ボンドカーとアストンマーティン「ゴールドフィンガー・エイジ」

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アストンマーティン・ラゴンダ・リミテッドが組織されて初めて登場したのは、1948年9月に登場したアストンマーティン2リッタースポーツであった(1950年5月に後継モデルのDB2が発表になったとき、遡ってDB1と呼ばれるようになった)。DB1はブラウン傘下に入ったアストンとラゴンダが持つ技術を手早くまとめたモデルといえた。だが、エンジンはSOHCで成功を収めてきたアストンマーティンらしからぬ2リッター4気筒OHVであり、15台を生産しただけで生産を終えた。次作のDB2からは、買収したラゴンダから引き継いたW.O.ベントレー設計の直列6気筒DOHCユニットを搭載し、これ以降、高性能なGTとして進化を遂げていった。
 
モータースポーツ史上に名を刻んできたアストンマーティンの伝統に従い、〝DB〞も積極的にレースに参加し、1951年のル・マン24時間では、ロイ・サルヴァドリ/キャロル・シエルビー組がドライブするレーシングスポーツカーのDBR1が優勝を果たしている。こうしたレースでの活躍を得て、"DB"シリーズ・アストンマーティンはイギリスを代表する高級で高性能なGTとして成功を収め、イタリアのマセラティやフェラーリを直接のライバルとして君臨した。その中核を成したのが、DB4、DB5、DB6といえよう。 

だが、1971年に勃発した石油ショックによる高性能車不況の影響を受けたことで、デイヴィド・ブラウンは1972年にカンパニー・デヴェロップメンツ社にアストンマーティン・ラゴンダ・リミテッドを売却する。彼の傘下にあった"DB Era"ではロードカーのみならずコンペティション・モデルにも優れたクルマが多数登場し、同社にとって活気に満ちた黄金期であったといえるだろう。
 
現在のアストンマーティンには、未だ"DB"の名を冠するモデルが存在している。消滅させることができない重要なブランドであることはもちろんだが、"DB"時代のよき姿を、上手に現代に投影しようとしていることが見て取れる。もし、イアン・フレミングが存命なら、ボンドカーに最新のアストンマーティンを使うことに異論を挟むことはないだろう。

文:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Words:Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.)

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