フォードRS200の開発裏話│具体的に1号車が作られるまで 開発費など

Photography:Zach James Todd

この記事は、フォードRS200が開発されていた当時、フォードのコンサルタントを務めていた著名ライターのグレアム・ロブソンが語る『時系列で追っていく!スペシャルな一台 フォードRS200の開発裏話』の続きです。

1983年7月10日
ネブワースにて開催されていたクラシックカー・イベントで、私がコメンテーターをしていた時、ひょっこりスチュワートが姿を現した。仕事中の私に近づくと、なんと足元にあったブリーフケースに大きめの封筒を入れるではないか。去り際にスチュアートは無言でウィンクして立ち去った。封筒には4種のデザイン案が入っていた。ちなみに、このデザイン案は今でも所有している。いずれも素晴らしいできばえだったし、それぞれに異なる特徴が見られた。
 
スチュアートとマイク・モートンは4種の案からサウスゲートとウィーラーのデザインを選択すると、2案の折衷案で進めることにした。というのもサウスゲートのコンセプトは技術的エレガンスを感じさせる美しいものだったのに対し、ウィーラーのコンセプトは道端でも整備できる実用性に富んだものになっていたのだ。この両案が融合すれば、チャンピオンシップを本気で狙えるマシンになりそうだった。ここからは第1号車を具体化にすることが最優先事項となった。順当に物事が進めば1984年末までに合計200台を生産し、1985年1月1日にホモロゲーション取得というスケジュールが見えてきた。だが、この段階で車両製作予算は確保されていなかった。

1983年8月
フォード・モータースポーツの本拠地、ボアハムは厳戒態勢に入った。私は裏口から入れてもらえたが、一般の訪問者は受け付けない状況になった。これはB200の第1号車が製作に入ったことを意味した。私が訪れた時は、シエラのボディパネルが床に散乱し、エスコートのターボモデルをいじくり倒しているメカニックがいた。これはシエラRSコスワースの試作車だったと後日、気づいた。


 
この間、ギア(トリノのカロッツェリア。フォードが子会社化していた)がボディのデザインを手掛けていた。スチュアートからの要望書には普遍的なデザインであること、エキサイティングなデザインでありながらアグレッシブではないこと、そしてフォード"らしさ"を感じさせるものと記載されていたそうだ。響きこそシンプルながら、具現化させるとなると困難を伴う要求だ。

1983年9月中旬
イタリア・グランプリ(モンツァ)後、スチュアートはギアに立ち寄り、ボディデザインのスケッチを持ち帰った。ボアハムでは白熱した議論の後、まだまだ煮詰める必要があると結論づけた。その時のことをスチュアートは次のように振り返った。「デザイン案ではフロントウィンドウの傾斜が強めで、たとえば森林を走行中、反射する光がドライバーに支障をしかねない。ギアとしては美しさを求めたのだろうが、我々はドライバーにとって最適なコックピット環境を与えたかった。最終的には、我々の意見が通った」

編集翻訳:古賀貴司(自動車王国)  Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom) Words:Graham Robson  Photography:Zach James Todd, courtesy of Canepa 取材協力:カネパ・クラシック・アンド・クラシックカーズ(canepa.com )

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