フォードRS200の開発裏話│具体的に1号車が作られるまで 開発費など

Photography:Zach James Todd



1983年9月20日
ボブ・ラッツ(この頃、デトロイトからグローバル・オペレーションを指揮していた)がロンドンで開かれたフォード幹部の会議に参加。ようやく第1号車の開発費として29万3000ドルの予算が確保された。トニー・サウスゲートとジョン・トンプソンがかかわっていたART社の協力を仰ぎ、1984年1月までにはシャシータブのプロトタイプを完成させることを目指した。また、スチュアートはさほど乗り気ではなかったが、FFデベロップメンツ社(今でも"ファーガソン"の名称で多くの人には知られている)が4WDシステムを手掛けることになった。
 
エンジンはRS1700Tの1786ccユニットを1803ccへと拡大してリファインする作業が、イーストンネストンのヘスケス伯爵の敷地内にオフィスを構えるJQF社に任された。そのほか、GTD40キットカー(GT40のレプリカ)で有名な、サウスウェールズのケン・アットウェルがボディの金型製作をすることになった。この頃、これまで「B200」で進められていたプロジェクト名に正式呼称として「RS200」が与えられ、ギアが提出するスケッチにも名称が入るようになった。

1984年1月
毎年開催されるモータースポーツ・プレス・カンファレンスに登壇したスチュアートは、記者からの新型モデルについての質問には一切答えなかった。個人的にスチュアートから伝えられたのは、「ARTが製作していたシャシータブは既に完成した」ということだけだった。そのほかメカニカル・コンポーネンツの開発製作も順調で、ギアによる外観デザインに対してもフォードからのゴーサインが出た。クレイモデルもほぼ完成し、間もなくケン・アットウェルに送られるという段階だった。残念ながら、この時点でのタイムスケジュールから1984年末からの発売は不可能であることも分かった。



1984年3月12日
この日はウォルター・ヘイズの部下一同、そしてスチュアートにとって重要な一日となった。RS200の試作車が完成し、いよいよフォードの上層部による最終審判がくだされる日が訪れた。極秘裏に進められてきたRS200らしく、お披露目の場も一風変わっていた。フォード・モータースポーツの本拠地、ボアハムでも、デザインや開発の拠点であるダントンでもなく、ロンドンにあるフォードの個人輸出向けショールームが選ばれた。マーケティングについてスチュアートが、生産についてはジョン・ウィーラーが、RS200の技術面についてマイク・モートンがそれぞれプレゼンテーションした。
 
ボブ・ラッツ率いるフォード幹部は5カ月半でRS200を完成させたことに感心し、5台のプロトタイプ製作、さらなるテスト、開発、認証作業に要する予算60万ドルを与えた。もし可能であったなら、"ペトロヘッド"で知られるボブ・ラッツはテストドライブをしたかっただろうが、さすがにこの時点では無理だった。
 
上層部へのプレゼンテーション後、イギリス・フォードの役員陣、さらに当時のプリンス・オブ・ケント(マイケル王子)がRS200を見に来たそうだ。かくいう私もRS200を見せてもらった。"あの電話"から、RS200の姿がここまで早く見られるとは感慨深いものがあった。しかし、これで終わりではなかった。
 
この時点でフォードへ課せられたタスクは、このプロトタイプをリファインし、200台を生産する道筋をつけることだった。そして、それを1985年の終わりまでに完了させることだ。タイムスケジュールのタイトさはプロトタイプ開発時から変わっていないどころか、ますます厳しさを増すのだった。

編集翻訳:古賀貴司(自動車王国)  Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom) Words:Graham Robson  Photography:Zach James Todd, courtesy of Canepa 取材協力:カネパ・クラシック・アンド・クラシックカーズ(canepa.com )

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