大破したフェラーリ・テスタロッサから生まれた!│「再製作」されたレーシングカー

Photography:Reverendpixel



「シャシーとサスペンションが完成した後、モデナのスカリエッティに車を運び、彼に新しいボディの製作を依頼した。スカリエッティはフェラーリの仕事をしていたが、彼自身もオリジナルのテスタロッサとは異なるアイディアを試したがったんだ。作業には4~5カ月かかったと思う」
 
CEGGAフェラーリのデビュー戦は1961年4月12日のモーボルジェでのヒルクライムだった。その後もジョルジュはいくつものヒルクライムに加えて、モーリス・カイエと組んでニュルブルクリング1000kmレ―スとペスカーラ4時間レースに出場した。その翌年は前年よりも出場イベント数は少なかったとはいえ、ジョルジュはノルドシュライフェでの耐久レースに再び出場した。

「ペスカーラは素晴らしかった。しかし、私の一番の思い出は1962年のニュルブルクリンクだ。ストレートではフェラーリのワークスカーが断然速かった。だが、CEGGAフェラーリのハンドリングは際立っていた。当時近所に住んでおり、スクデリアCEGGAのメンバーだったエドゥアール・グロブと組んでなかなかいいレースができたと思う」
 
その際に、フェラーリのワークスドライバーだったウィリィ・メレスが、CEGGAフェラーリのコーナリング性能に感心して、車に試乗させてもらえないかと頼み込んできたという。だがクロードは「それはできない」とベルギー人のエースに告げたという。
 


1962年の末にガシュナン兄弟がCEGGAフェラーリでのレ―スを止めた後、車はスイス人の友人に売却された。彼はそのフェラーリを公道で使用し、一度などはエイグルからル・マンまで足を伸ばしたという。その後、フェラーリは別の人物の手に渡り(ただしエンジンだけはジョルジュが手元に残した)、そこから後にフェラーリのコレクターとして有名なピエール・バルディノンに渡った。ジョルジュは正しいエンジンも彼に売却し、バルディノンは元のテスタロッサ仕様に戻したというが、その際にボディワークやリアサスペンションなどCEGGA独自の部品の多くは失われてしまった。
 
ジョルジュ自身は1969年までレ―スを続けたが、3リッターのCEGGAマセラティでフランスのヒルクライムに出場中に大きな事故を起こしてしまった。「フロントタイヤがパンクしてひっくりかえり、車は大破した。そこでレ―スから足を洗うことにしたんだ。時間もなかったし、家族もレースに賛成してくれなかった。子供たちも小さかったしね。クロードは小さなガレージを経営しており、私はメカニックとして手伝うことにした。その後1970年代初めに私はトヨタの販売店を開いた。当時はトヨタはほとんど知られていなかったが、私たちはその事業を拡大し、今も私の息子と娘がそのビジネスを引き継いでいる」


モータースポーツの歴史の隅に記録されるはずだったCEGGAフェラーリのさらなる歴史は・・・次回へ続く

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:James Page Photography:Reverendpixel

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