車と、人と、イタリアと。クラシックカーで彩り巡る人生のすすめ


 
そして、「次の世代につないでいくこと」という言葉が持つ意味について考えさせられた。“若者の車離れ”などが囁かれ、車への愛を持つ若年層は確かに少なくなっているかもしれない。しかし、誰かに大切にされてきた車が姿を消すことは、自ら廃車にでもしない限り、起き得ないのだ。このクラシックカーの文化を継続させていくということは、いわば、"愛をつないでいくこと"である。
 
では、その"愛"を少しでも後世に継承していくために、現在クラシックカーを所有している人々が出来ることはなんだろうか。その答えは、「クラシックカーというのは私の所有物では決してないんです。私が預かっているだけに過ぎなくて、いかによいコンデションを保って、次の世代に受け継いでいけるかが基本的な使命だと思っています」という瀧川氏の言葉の中にあった。

「預かっているだけ」という言葉を聞いても、感銘を受けることはまずないであろう。しかし、この場合はその言葉が持つ意味の深さ、根底に流れる人間としてあるべき謙虚な姿を垣間見たのだ。語弊のある言い方であるかもしれないが、特別な車を所有している人の中には、「車ありき」で大きな気持ちになってしまっている人もいる。ラリーに出ても、わが物顔で公道を走っている人もいるのが現実だ。しかし、クラシックカーなど、興味のない人からしたら、うるさくて、ガソリンくさい迷惑な物体でしかないのだ。「みんなの道を使って遊ばせてもらっている立場だから、感謝をしなければいけない」と瀧川氏は言う。
 
クラシックカーを所有している人みなが、本当に心から車を大事にしているとは言えないのも現代ならではの事実だ。というのも、近年のクラシックカー価格高騰は著しく、投資目的のために購入する人も世界中に沢山存在するのだ。ここにも、若い世代がクラシックカーの世界に手を出しづらくなっている理由が潜んでいるのであろう。手に入れること自体のハードルが上がってしまっていて、どんなにほしい車があっても、その値段は億を越えることも普通だったりするのだから。ただ、「ほしい車を原動力に頑張るのもよいよね」と瀧川氏が言う言葉の通りでもある。
 


若い世代とクラシックカーについて記したが、ミッレミリアの会場には老若男女問わず多くの人が応援に集まる。子供であっても、朝夜などまったく関係なく、路上で走ってくるクラシックカーを待っているのだ。過酷でありながらも美しいイタリアを走り抜け出場している人、応援に来ている人、警察、訪れる街の人々、みなが一体となって一つの風景を創り上げている。ミッレミリアはまさしくイタリアの文化だと瀧川氏は言う。ほとんどの人が、1年に1度、必ずクラシックカーを目にするのだ。若者にとってもクラシックカーが、身近な存在になるであろう。日本では、普段からクラシックカーを目にすることはあまりない。しかし、その文化を盛り上げるためには先ず、対象を目にして、興味を持つ人を増やす必要がある。それこそが、ラフェスタ・ミッレミリアやラフェスタ・プリマヴェーラが開催されている意味であろう。

また、クラシックカーがつなぐ人の輪、ラリーを通じて経験できる喜びなどと同様に価値のあるものなのだ。ミッレミリアに出場すると、社会的階級や職業を飛び越え、様々な友人ができる。1年越しに会える時は本当に嬉しいと語る。
 
そんな人々とのつながりへ、純粋に喜びを感じ、楽しむというのは簡単なようであって、大人になると難しいことであったりもするではないだろうか。無垢な心を持っているからこそ抱くことのできる、古いものへの敬意、美しいものへの魅力があるのだ。かつて、あるF1ドライバーが残した言葉を思い出した。「私はアーティストだ。サーキットがキャンバスで、車が絵筆なんだ」クラシックカーを愛して、走らせている人々は車で人生を彩っている。

文:オクタン日本版編集部 写真:佐藤亮太 写真提供:ミッレミリア、瀧川弘幸氏 Words: Octane Japan Photography: Ryota SATO Images:Mille Miglia, Hiroyuki TAKIGAWA

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