約100年前!モータースポーツの基盤を築いた1921年に初開催された「200マイルレース」

Photography: Paul Harmer


 
レースは、後に陸上速度記録を次々に打ち立てることになるヘンリー・シーグレイヴが、1500cc 16バルブのタルボ・ダラックを平均88.82mphで走らせ優勝した。1100ccクラスでは、アーチボルト・フレイザー・ナッシュが、ロンドン郊外の自宅の馬小屋で、H.R.ゴッドフリーとともに創業したサイクルカーGNを駆って平均71.54mphでクラス優勝を果たした。


マンチェスターのニュートン&ベネットは、エドワード期からトリノの自動車産業のエージェントだった。ジョン・ニュートンはトリノのS.C.A.T.(Societa Ceirano Automobili Torino)のUKエージェントだった際に同社に投資し、ヴァルトのファクトリーで自社の名を冠したモデルの製造を開始した。1913年には2155cc4気筒エンジンを搭載した12HPを発表、1000台以上を生産している。
 
ジョンの息子ノエルは、トリノに駐在していた時にミラノの若いエンジニア、オリヴィオ・ペレガッティに出会い、1100ccクラスのレーシングカーを造ることで意気投合した。設計担当はペレガッティ。彼らの頭にはライバルとしてこのクラスを席巻していたオースティン・セヴンの存在があった。当時のGPアルファ・ロメオやサンビームを彷彿させる長いテールエンドを持つ美しいレーシングカー2台が、S.C.A.Tのチェイラーノ工場で造られた。

ノエル・ニュートンとオリヴィオ・ペレガッティは素晴らしい仕上がりのこの車で1923年の200マイルレースにエントリーするも、ついにスタートすることはなかった。製作費6000ポンドは現代の貨幣価値に換算すれば40万ポンドに達する。その特徴は、固定式シリンダーヘッドに複雑なギアドライブの70bhpツインOHC 4気筒1100ccエンジン、分割式クランクシャフト、軽量中空コネクティングロッド、5基のオイルポンプ、ボール&ローラー・メインベアリング、HMホブソン社製クローデル・ホブソン・ツインキャブレター、コーンクラッチ、4輪ブレーキだ。ドライサンプのオイルタンクはバルクヘッド内にあり、空冷のためのチューブがコクピットまで達している。多くの鋳造パーツはイソッタ・フラスキーニの工場で造られた。

200マイルレースでは不成功に終わったこの車はその後、最年少の12歳でブルックランズ・サーキットを走ったことで有名なスピードクイーン、女流ドライバーのアイヴィ・カミングスの父親シドニー・カミングスが、娘のために1926年に購入した。翌年アイヴィの手を離れたYM71は、英国内でオーナーを転々とするが1960年代に救出されVSCCの重鎮ジェフ・ヘアーによってレストアされた。さらに後年、別のところで発見されたスペアエンジンを使って一体式のクランクシャフトやホワイトメタルの軸受などのモダナイズを加え復元された。現在はビスターのクラシックカーディーラー 、ロバート・グローバーが販売中である。


1922年へ続く・・

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers)  Transcreation: Kosaku KOISHIHARA (Ursus Page Makers) Words: Allan Winn Photography: Paul Harmer 取材協力:ブルックランズ・ミュージアム、ジェームズ・チェーン、 フランシス・ガラシャン、ロバート・グラバー、ジュリアン・テーラー、キース・テーラー。

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