偉大なスポーツカー ジャガーXKSSはどのようにして生まれたのか?

Photography: Amy Shore, Mike Dodd, Nick Dungan


 
本当に50台造るつもりがあったのかを確認する術はないが、ジャガーがSCCAに宛てた手紙で40台と表明していたのは事実だ。とはいえ、40台であっても現実的な数とは思えない。すでにあった25台のDタイプ以外に、15台を新たに製造する必要があるからだ。製造ラインはずいぶん前に解体されていたから、パーツも充分に残っていなかっただろう。
 
しかし、Dタイプをモディファイしてプロダクションカーの定義に当てはまるものにするよう、カニンガムやSCCAのドライバーらが圧力をかけたことは充分に考えられる。ただ、アメリカのジャガー販売店はそれほど前向きではなかったという。XKSSが途方もないパフォーマンスを発揮したら、新しいスポーツカーのXK150や、まだ開発中だったEタイプのお株を奪うことになるからだ。

Dタイプをロードカーにコンバートする方法を考え出したのは、アメリカ人のロバート・ブレイクだった。ブレイクは第二次大戦中にアメリカ軍とともにイギリスにやってきて、イギリス人女性と結婚。帰国すると、優れた金属加工の腕を買われてカニンガムのチームに加わり、まずニューヨークで、のちにフロリダに移って、カニンガムのレーシングカーの製造や塗装を一手に引き受けた。1955年のル・マンで、ウィリアム・ライオンズや当時のチーフエンジニア、ウィリアム・ヘインズと話したことをきっかけに、同年11月にジャガーのコンペティション部門に加わった。


 
コンバートについて検討するために、ブレイクはシンプルな方法を取った。倉庫からコンペティション部門のワークショップに量産型Dタイプを1台(シャシーナンバーXKD555)持ってきて、変更箇所を決めると、その場でパーツを製作したのだ。そもそもXKSSのプロジェクト自体が自分の発案だったと、ブレイクは1990年のインタビューで語っている。Dタイプを見ながら、「こいつからいいロードスターを造れるぞと思った」ブレイクは、そのアイデアをウィリアム・ライオンズに伝えたという。「"やってみろ"と言われたよ。私が何かアイデアを思いつくと、いつもそう言ってくれた。そこで、1台持ってきて仕事に取りかかったのさ」
 
この主張を完全に裏付けることはできないが、ブレイクをよく知る人々はあり得る話だと考えている。当時、コンペティション部門で働いていたピーター・ジョーンズもそのひとりだ。XKSSを造ったスタッフで存命なのは、おそらくジョーンズだけだろう。「ボブ(ブレイク)の言葉にはサー・ウィリアムも耳を貸した。あの偉大な人を前にするとみんな恐れおののいたが、ボブはリラックスしたもので、よくちょっとした仕事を頼まれていた」



プロジェクトが認められると・・・次回へ続く

HISTORY 編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: David Lillywhiite 

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