過小評価されている?頂点に君臨するフェラーリの歴史に残るヒストリー

Photography:Ingo Schmoldt



245bhp/6000rpmのパワーは、トランスアクスルの4段ギアボックスを介して路面へと伝えられる。シャシー製作のスペシャリスト、ジルコが手がけたスチール製チューブラーフレームにアルミ製ボディパネルを貼り付けた構造により、車重はわずか750kgしかなかった。俊敏なハンドリングは、コイルとウィッシュボーンによるフロント、横置きリーフスプリングとド・ディオン・アクスルを組み合わせたリアサスペンションから生み出されるものだ。

さらに4個の巨大な油圧式アルフィン・ドラムブレーキが採用されていた。もともと栄光に満ちたマシンだが、1955年に750モンツァを駆るアルベルト・アスカリが事故死したことで悲劇とも結びつけられるようになる。しかも、アクシデントが起きたのが車名と同じモンツァだったことは皮肉としかいいようがない。

 
われわれが取材したシャシーナンバー0510Mの1955年製フェラーリ750モンツァは傑出したヒストリーを有している。この種のレーシングカーは、繰り返し酷使された結果、ボロボロに消耗しているケースが少なくない。50年代のレーシングカーといえば、クラッシュ、エンジンの交換、突然のリタイアといった苦難を経験していても不思議ではないが、この750モンツァは例外。しかも数多くの勝利を挙げているのだ。


 
これ以前にもフェラーリを所有していて、そのなかにはカレラ・パナメリカーナを戦った375MMが含まれている。メキシコで繰り広げられたこのロードレースでドライバーを務めたのは、フィル・ヒルとリッチー・ギンサーのコンビだった。750を輸入したのはフェラーリのインポーターでもあったルイジ・キネッティで、当時、アメリカのレースを戦う"ツール"としては最新の機種だった。そのデビュー戦となったのは1955年のセブリング12時間のことで、ギバーソンは再びフィル・ヒルの腕を借りることに成功。ヒルとペアを組んだのが、新進気鋭の若きドライバー、キャロル・シェルビーだった。ちなみにシェルビーもまたギバーソンと同じダラス出身である。

この頃は物事がとにかくシンプルだった。シェルビーはトレーラーを牽引したピックアップでダラスからニューヨークに向かい、そこでモンツァを受け取ると、フロリダ州のセブリングまでそれを運んだ。ほどなく"レジェンド"となるふたりはトップでチェッカード・フラッグを受けたものの、あとで述べる事情により2位へと降格。代わって、マイク・ホーソンとフィル・ウォルターズが乗るブリッグス・カニンガムのDタイプ・ジャガーが優勝とされた。


ギプスで固定されていたシェルビーの腕の理由とは・・・次回へ続く

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words and Photography:Ingo Schmoldt

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