当時は誰も考えていなかった!ポルシェ911 でデイトナ24時間への挑戦

Porsche AG

この記事は『ブラックとホワイトのポルシェ911│モータースポーツの歴史で重要な一台』の続きです。

ブラックのポルシェ911を手にすると、ライアンは最初のターゲットを1966年 デイトナ24時間に定めた。PCA(ポルシェ・クラブ・オブ・アメリカ)から2名の友人、ビル・ベンカーとリン・コールマンを集い、レースに向けて準備を進めていった。


ポルシェの開発部門を率いていたフェルディナンド・ピエヒは、1965年のラリー・モンテカルロに911を投入し、ヘルベルト・リンゲとペーター・ファルクのコンビは5位入賞を果たしている。しかし、911での好結果はあくまでもテストの一環と考えられていた。1965年夏に開催されたヒルクライム・レースにおいては、エベルハルト・マーレが911で勝利しているが、これも大きな注目を集めることはなかった。つまり、当時のポルシェ社内では誰も911でデイトナ24時間レースにエントリーすることなど、想像すらしていなかったのである。

ライアンのチームは、とにかくスピーディに準備を進めていった。まず助手席を取り外し、ハンドメイドのスポーツエキゾーストをセンター出しに備え、コクピットには簡易型のタルガバー(ロールケージ)が組み付けられ、バンパー下には夜間走行に備えて2基の追加ランプも装備した。ホイールサイズは市販モデルと同様に4.5 × 15インチのスチール製リムのままで、足回りやブレーキもパーツがなく、ベースのままとなっている。
 
911にはAMラジオアンテナとスピーカーが標準装備されていたが、それらのパーツはレースにおいて重量増となる。つまり、タイムロスにつながるというわけだ。チームがラジオを取り外していたのか、それとも走行中の楽しみとして使っていたのか分からないが、当時の写真を確認すると、アンテナが伸びているように見える。



ポルシェ本社は、発売直後の911が大観衆が集まった国際レースでトラブルによってリタイアしてしまうことを心配していた。そんなことが起きれば、笑いものになり、一瞬にしてポルシェが築き上げた名声を失うかもしれないのだ。結果、ツッフェンハウゼンはフォン・ハンシュタインに、あらゆる手段を講じても911のエントリーを止めるように命じることになった。

オクタン日本版編集部

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