消え去った「デ・トマゾの亡霊」モデナに残されていた遺産とその歴史を辿る

Diego Poluzzi

2020年8月3日、遂にモデナに残されていたひとつの”遺産”が消えた。2004年に裁判所管轄となって以来、放置され廃墟となっていたデ・トマゾ本社工場の取り壊し作業が始まったのだ。その跡地は大規模な駐車場を備えたショッピングモールになるとされている。幾度となくモデナにおけるデ・トマゾ復活プランが語られたが、後述するように現在、ブランドは香港資本の手にわたっている。

いずれにしても、今回の工場取り壊しで、モデナからデ・トマゾの亡霊は消え去った。その前を通る度にいつもその存在が気になっていたのだが、遂になくなってしまったのは感慨深い。もっともまだ、モデナにはデ・トマソ崩壊の少し前、1997年に破綻した第二期ブガッティの“遺産”も残っているのだが・・・。

解体中のデ・トマソ本社工場 (C)Diego Poluzzi

これは世界が注目するスポーツカーの聖地モデナにおける、新秩序を連想させる象徴的な出来事だ。フェラーリというハイパフォーマンスカー王者の行く末、VWグループの精鋭としてのランボルギーニ、FCAグループの将来を賭けたマセラティ、といった当地の他ブランドは今、事業規模拡大へ向けての大きな変革期の中にある。

熱狂的マニアを持つ“スーパーカー”達は、オイルショック、アジア通貨危機など多くの危機を乗り越えてきた。コモディディ化した自動車産業において、モデナ・ブランドは根強い富裕ターゲットを固持し、ある意味では善戦している。しかし、モデナの匠の手による少量生産ビジネスは大きく変化せざるを得ない。環境問題への適応の為にどんどんと厳しい規制が生まれている自動車業界であるが、これらモデナのメーカー達も例外ではない。その対応に為に多額の開発資金が必要となるから、大きな資本のバックボーンが必要になるし、今までのような少量生産では生き延びて行くことは難しくなっている。モデナの歴史的ブランド達は、その資本系列やサプライヤー網の構築など、今まで以上にモデナから外へ目を向けなければならなくなっているわけだ。

さて、遂にモデナにおける足跡が消滅したデ・トマゾであるが、現在に至るまでの紆余曲折した歴史をここで少し振り返ってみよう。

アルゼンチンにイタリア人二世とした生まれたアレッサンドロ・デ・トマゾは若くしてモータースポーツに熱中し、ドライバーとして、富裕ドライバーへのレース活動のコーディネートとしてその頭角を表わした。転機となったのが北米富裕ファミリー生まれの若き女性ドライバー、イザベル・ハスケルとの結婚であった。1959年、イタリア モデナにデ・トマゾ・アウトモビリを設立し、レースカー・コンストラクター、そして市販スポーツカービジネスを進める。

アレッサンドロ・デ・トマゾ

念願であった北米とのコネクションが実り、フォードとの共同事業によりデ・トマゾ・パンテーラをニューヨーク・モーターショーで発表したのは1970年のことであった。その後は、ベネリ、モト・グッツィを始め、マセラティ、イノチェンティを傘下に収め自動車ビジネスにおいて確固たる存在感を表わした。 

しかし、1993年にアレッサンドロが心筋梗塞で倒れ、危篤状態となったことから、デ・トマゾ・グループの活動は一気に低迷期を迎えた。マセラティを始め傘下のブランドを手放すこととなり、残る資産はデ・トマゾ・モデナ(デ・トマゾ・アウトモビリの改名)社本体とモデナ市中心部にある老舗、ホテル・カナルグランデのみとなった。グァラやビグァといった新規プロジェクトを起こし、ロシアの自動車メーカーUAZとの提携をもくろんだものの、それらは結果を残さなかった。そして遂に2003年、アレッサンドロは死去。その翌年、デ・トマゾ・モデナは事業を停止し、清算を決定。裁判所管理下に置かれることになった。

ロシニューロ時代のトリノ デ・トマゾ本社工場

2009年にイタリア自動車業界で活躍していたジャン・マリオ・ロシニョーロがデ・トマゾの商標を獲得し、ブランドの再生を宣言した。トリノのそれまでアルファロメオ ブレラなどを委託生産していたピニンファリーナのグルリアスコ工場のリノベーションと当地の雇用確保を担保に、ピエモンテ州より多額の融資を受けた。しかしプロジェクトはなかなか進まず、横領罪でロシニョーロらが拘束され事業停止するという最悪の結末を迎えた。

文:越湖信一

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