ひときわユニーク!人知れず魅力的なアバルトの初期作品

Photography:Dirk de Jager

ひときわユニークな外観を持つワンオフの1953年アバルト・スポーツ・ギア・クーペはカルロ・アバルトにとって初期の作品のひとつだ。1954年以来ずっと行方知らずだったが、今またコンクールの主役に返り咲いた。

カルロ・アバルトは1908年11月15日、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで、イタリア系オーストリア人を父に、純粋のオーストリア人を母に産まれた。生まれた時の名前はカール。のちのイタリア名カルロと同義のドイツ語だった。11月生まれは12星座ではスコーピオ、すなわち蠍座である。すべてのアバルト・バッヂに見られるあの"サソリ"、だ。


 
母の実家が裕福だったことからなに不自由なく育ったカルロは、幼少の頃から機械とスピードに興味を持ち、最新のスポーツ自転車競技で頭角を現した。次第に機械工学にも興味の範囲が広がり、19歳のとき、地元オーストリアの二輪車メーカーにエンジニア兼テストライダーとして入社。これを転機に二輪車ライダーとして歩み始めるようになった。
 
1928年にGPレースへのデビューを果たすが、仲間の裏切りによってリタイアに終わり、同時に職さえも失った。傷心のカルロだったが、立ち直りは早かったようで、それから数週間後の1928年7月29日、カザルツブルグで開催されたレースに、自身で購入した英国製ラッジ・ウィットワース製250ccエンジンを搭載したグリンドレー・ピアレスで挑んだ。このレースで初優勝したことが認められ、当時ドイツ最強と評されていたDKWファクトリーチームや、英国のジェームスとライダー契約を結ぶことになった。
 
メカニズムに造詣の深いカルロは、当時はあまり例のなかった水冷2ストローク単気筒のバイクを自ら開発し、自身の名を冠してレースに挑んだが、22歳の1930年、リンツ近郊でのレースで重傷を負い、医師から二輪レースを禁止されることになった。だが、カルロはレースを諦めることはなく、事故から3年後、当時の欧州では最新の乗り物として人気を博していたサイドカーを自ら設計開発して、レースへ復帰した。カルロはこのサイドカーに、側車の車輪が本体のバイクと同調して傾く(バンクする)機構を組み込んだ。これによりコーナリングスピードが飛躍的に向上することになった。このサイドカーをベルギーのFN600ccに装着したマシンで連勝を続け、1935年シーズンまでに欧州最強のサイドカーライダーの名声も獲得した。
 
その当時、オーストリアには隣国ドイツのナチズムの影響が迫っていた。カルロは1938年、父の故郷であるオーストリアとの国境が近いイタリアのメラノに移住し、"カルロ"を名乗ってサイドカーレースを続けていたが、1939年10月、再度アクシデントに見舞われ、一命はとりとめたものの、これ以後レースに復帰することはなかった。

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers )  Transcreation:Kosaku KOISHIHARA(Ursus Page Makers ) Words:Massimo Delbò Photography:Dirk de Jager

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