進化したランボルギーニの「悪魔」│ディアブロ初期型と最終型をテスト!

Photography:Max Serra

ディアブロの生誕30年周年を記念し、オクタンはその初期型と最終型をテストした。困難な時期にあったランボルギーニを支えたフラッグシップモデルの進化を振り返ってみた。

初めてランボルギーニ・ディアブロを操ったときのことは、いまも克明に覚えている。あれはおよそ10年前、最高出力517bhpの6ℓエンジンを搭載したモデルだった。スロットルペダルをフロアまで踏み込み、レヴカウンターが3000rpmを越すと、恐ろしいほどのパワーが止めどなくあふれだし、このディアブロがどれほど「素晴らしい悪魔」になり得るかを思い知らされた。そのときの経験を表現するのに「印象的だった」という言葉はまるで不充分で、私はまるで中毒患者のようにうろたえていた。なにしろ、3000rpmまでは従順で滑らかな回り方をするのに、それを超えると突如として莫大なエネルギーが炸裂。しかも、そのエネルギーは1ミリセカンドごとに激しさを増していくのだ。そして5000rpmを超えてからの世界は、私にとって新境地だった。その加速感は自然界には存在し得ないもののように思えた。
 
人間と同じで、スポーツカーのキャラクターも血筋だけで決まるわけではなく、その後の経験や努力が果たす役割も見逃せない。ディアブロが誕生した直後に歩んだ道のりは苦難に満ちたものだった。いまも残る資料に触れると、このスーパースポーツカーがその誕生以来、様々な逆境と戦ってきたことがわかる。1986年に時計の針を戻すと、サンタガータ・ボロネーゼに本拠を構えるランボルギーニのビジネスは順調とはいえず、その後の数年間で様々な騒動が巻き起こった。


 
1966年デビューのミウラは大成功を収め、設立3年目にしてランボルギーニはスーパーカー・シーンの最前線に躍り出る。さらに、立て続けにニューモデルを送り出すと会社の売り上げも次第に伸びていった。そしてミウラの次期モデルが1971年に登場。縦置き型5ℓV12エンジンをミドシップに搭載するLP500が発表されると、ここに様々な改良の手が加わってカウンタックとして市販される。これが1973年のことだ。しかし、社会的不安やオイルショックにくわえ、トラクター事業の躓きで経営難に陥ると、創業者のフェルッチオ・ランボルギーニは愛して止まなかった同社を数年後に手放す決意を固める。
 
1978年、アウトモビリ・ランボルギーニの経営は行き詰まり、イタリア裁判所の管理下に置かれる。そこで再生に向けた聴聞会が開かれ、より多くの雇用を生み出すことが必要と判断された。1980年、管財人は、ランボルギーニを長年愛用してきたジャン-クロードとパトリックのミムラン兄弟に300万ドルで売却することを決める。そして弟のパトリックが会長兼CEOに就任。彼の努力により、ウラッコをベースに開発されたニューモデル"ジャルパ" や常識外れのオフロードモデルであるLM002などが、引き続き好評を博していたカウンタックとともに販売されたのである。

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:Massimo Delbò Photography:Max Serra

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