進化したランボルギーニの「悪魔」│ディアブロ初期型と最終型をテスト!

Photography:Max Serra


ただし、ミムラン兄弟は気づいていた。今後、様々な市場でカウンタックの認証を得るのが難しくなる。そして個性的なカウンタックがいつかは時代遅れになることも明らかだった。つまり、後継モデルが必要だったのだ。
 
技術面でディアブロの父親役を務めたのは"インジェネーレ"ルイジ・マルミローリだった。1985年1月にランボルギーニの社員となったマルミローリは1945年、フィオラノ・モデネーゼの生まれ。この近くにフェラーリのテストコースが建設されたのは後年のことである。とはいえ、マラネロの本社工場がそう遠くなかったこともあり、彼は12気筒エンジンのエグゾーストノートを子守歌にして育った。つまり、幼い日々から彼の心にはスーパースポーツカーの魂が宿っていたのである。

「生まれ故郷のことは私の身体に染みついています」と、マルミローリは私に語った。「学校を卒業すると、私はすぐにフェラーリのレース部門に就職しました」


 
入社して6年ほど経ったところで、マルミローリはレーシングカーのデザインならびに国際サーキットでレーシングカーのマネージメントをおこなう会社を設立。ここでF1、F2、F3、スポーツプロトタイプカーなどを手がける。その主な顧客はアウトデルタとアルファロメオ、コパスカー-フィッティパルディ、エンサイン、ATS、ポルシェを走らせるプライベートチーム、ミナルディなどであった。1983年、彼はアルファロメオF1チームの技術責任者に就任するが、1984年にカルロ・キティがチームを去ると、彼もそれにならった。いずれにしても、その経歴は申し分のないもので、タイミングも完璧だった。マルミローリが回想する。

「新しいチャレンジは、私にはとても魅力あるものでした。
ランボルギーニで仕事をし始める前に、私はフェルッチオが営む農場で1日を過ごしました。彼の会社に宿るスピリットを理解するのが目的でした」

「当初の動き出しはゆっくりとしたものでしたが、いきなり前進
の指示が下ると、そこからは様々なことが急速に進んでいきました。6カ月か7カ月後には試作車が完成し、テストと開発が始まります。社員は誰もが車を熱愛していて、知識や能力も豊かでした。そんな彼らと一緒に仕事するのは実に容易でした。いまでもよく覚えていますよ。1987 年4月17日のことです。グレーに塗られた、決して見栄えがいいとはいえない最初のプロトタイプで工場の周りを2周したときの気持ちは…」

「パトリックさんもいらっしゃって、シャンパンのボトルを
開けました。私たちは昼も夜も働きました。昼間は事務所で作業をおこない、夜になってカメラマンや人目がなくなるとロードテストをおこなったものです」



しかし、1987年後半にまたしても・・・次回へ続く

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:Massimo Delbò Photography:Max Serra

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