ヒーロー、栄光、伝説 記憶に残るジャン・ブガッティという人物の存在

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ブガッティのほかに、ヒーロー、栄光、伝説を生み出したブランドはないだろう。そして、エットーレの息子のように将来を嘱望されながらも悲劇的な、心に残る最期を遂げた人物もまた然りである。

医師を志す子供を責めることのできる人がいるだろうか。会計士でもいいし、きこりでも、どんなものでもいい。スーパースターの父の煌びやかな業績を継ぐ子供は誰でも彼らの個人的な成功や失敗にかかわらず、家族というものの幻影から完全に自由になることは決してできない。常に「親父のおかげだろう」と囁かれるからだ。エットーレ・ブガッティは彼自身そのような道を辿らなかった。エットーレはイタリアで彫刻家や画家、建築家、職工を輩出した芸術一家(弟のレンブラントは偶然名付けられたわけではない)の一員として生を受けたが、若い頃にはすでに産業界で彼自身のキャリアを築いていくことを決意していた。

しかし、エットーレは長男のジャンを彼の後継者として訓練していくことに対して不安をのぞかせることも、ジャン自身が反感を露わにすることもなかった。もちろん、読者諸君はそれこそがジャンが知り得た唯一の人生だった、ということもできる。

彼はジャノベルト・カルロ・レンブラント・エットーレ・ブガッティと名付けられ、1909年にドイツのケルンに生まれた。シンプルに愛称の「ジャン」として知られ、1歳になる前にブガッティの工場や屋敷、荘園のあるモルスハイムへと移った。ジャンはブガッティの車や従業員、顧客、レーシングドライバー、そしてそれらを取り巻くブガッティの馬、ワイン、そしてホテルに囲まれて育った。
 
ジャンは10代で正式に入社し、父と同じく工場で流行の金属様式を自らの手で学んだ。父同様に、彼は形式的な訓練はまったく受けておらず、工学の学位などはいうまでもないことだった。エットーレは「知性主義」を軽蔑しており、技術的教育は自然な想像力を抑制するものだと信じていた。そのため、彼の子供達は基本的には家庭教育によって育てられた。おそらくジャンの場合は水が合ったのだろう。結果として成長した彼はエットーレの機械に対する構想力に清涼な一服を添えることになったが、彼への頑なな敵対勢力を変容させることは叶わなかった。ヘンリー・フォード、そしてエドセル・フォードの立場から彼ら親子のことを考えてみると、エットーレは単に奇妙なナルシストというだけでなくサディズムすら感じさせる荒れ狂う“ガキ大将”に思えるのだ。

ジャンの役割が拡大するにつれて、彼は次第に父を新たな方向へと突き動かしていった。ジャンの努力がなければエットーレがスーパーチャージャーや加圧オイル、油圧ブレーキ、ヘミヘッド燃焼室(いわゆるハリー・ミラー・インディカーの「影響」を多分に受けている)、そして四輪駆動実験を承諾したかは現在でも疑わしい。ジャンのつくる車体のスタイリングは貴重な外気のようなもので、23歳のときに描かれた1932年 タイプ50 コーチプロファイルのゆるやかなフロントガラスのフォルムのように、そのスタイルは若い頃から一貫したものを持っている。

文:octane UK 訳:オクタン日本版編集部

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