ヒーロー、栄光、伝説 記憶に残るジャン・ブガッティという人物の存在

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彼はロードマシンかレースマシンかを問わないテストドライバーでもあり、エットーレが売れ残りのロワイヤルエンジンを活用するために酷使した120mph(約193km/h)の豪華列車も彼の運転によるものだった。聞くところによると、ジャンが駅をひとつ通り過ぎてしまったとき、車両が速すぎるために近隣の建物の窓はすべて吹き飛んだそうだ。このような彼の真夜中のワイルドな「路上試験」は彼の父が禁じたレースの代わりのようなものだったのかもしれない。しかし、いくつかのヒルクライムには参加を許されていた。1932年のシェルシュレー・ウォルシュで彼が引き起こした事故はよ良く知られている。皮肉なことに、四輪駆動車での事故だったのだ。
 
しかしながらその頃には彼は”事実上”工場のオペレーションを任されていた。不況の本格化とフランス人労働者の社会不安が頂点に達しそうだったこともあって、ジャンがモルスハイムを視察している間はエットーレ自身がパリのオフィスで費やす時間を増やし、表面的にはレールカー・ビジネスを指揮していた。1936年にはそのような緊張がピークに達し、労働者たちはストライキを実施し、エットーレを締め出した。この恩知らずともいえる件により、彼の高貴なプライドはズタズタにされ、これを最後にエットーレが表舞台を離れたことにより1936年からはジャンの出番がより一層増えることになる。
 
そして、わずかながらも黄金時代と呼べるものが到来した。ジャンはすでに彼の功績の大部分を占めていたタイプ57のプラットフォームを継続的なアップグレードと息をのむようなボディシリーズによる開発をおこなった。その結果として、タイプ57はアトランティック・クーペのように年代を問わない憧れの車へとなっていったのだ。ジャンは品のよい勤勉な若者であり、当時の大多数の労働者と仕事場のベンチを共有していたようにスタッフとは互いへの信頼と尊敬を保っていた。何よりも彼は人の話をよく聞き、そして行動に移した。その甲斐あって労働者たちとの関係をかなり改善させ、ル・マンへのエントリーのための組立作業に向けた労働時間の拡大にも賛同を得ることができた。ジャンの指揮のもと、ブガッティは1937年と1939年の二回にわたって栄冠を勝ち取り、それが同社の歴史における唯一の勝利となった。目の前に広がる未来は徐々に輝きを増していっていたはずだった。

それは1939年8月の夜分のことだった。ジャンは夕食を終えて家族に「15分ほどで帰るよ」と伝え、その年のル・マンの勝者で真夜中のロードテストにくりだした。彼自身はいつもの手順を踏んで運転していたにもかかわらず、自転車がジャンのヘッドランプの前に入り込んできたことによって彼は窮地に立たされてしまった。自転車を避けようとするあまり道を逸れ、これから来るであろう恐怖へ対抗しようとしていたオートモービル・ブガッティの本当の希望を道連れにして亡くなった。彼はまだたったの30歳、このときから「もし生きていたなら…」と例外なく惜しまれるようになったのである。

文:octane UK 訳:オクタン日本版編集部

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