危機と隣り合わせのレースで戦ったフェラーリ 250 MM

1952年にメキシコで開催されたロードレース「ラ・カレラ・パンアメリカーナ」は危険なレースだった。致命的な事故が多発し、フロントガラスをハシビロコウが突き破り、悪路でタイヤがズタズタになるなど、危機と隣り合わせのレースだった。メルセデスのガルウイング300SLクーペがワン・ツー・フィニッシュを果たしたものの、フェラーリ340メキシコを駆るルイジ・キネッティが背後に迫っていた。姉妹車2台のうちの1台を操っていたアルベルト・アスカリは先行していたが、90マイル走行後にクラッシュしている。

メルセデスチームが勝利したとはいえ、このコースで最も速かったのは、フェラーリ250MMベルリネッタ・プロトタイプのジョバンニ・ブラッコだった。彼は第2ステージからレースをリードしていたが、残り300マイルのところでトランスミッションが故障してしまった。

1952年のレースに212インター・ベルリネッタ(シャシー0239EU)を個人で参戦した野心的なロードレーサー、エフライン・ルイス・エチェベリアは、第2ステージをフィル・ヒルを前にして完走するなど好調だったが、1932マイルの第3ステージで10位となっていたときに横滑りしてしまった。すでに最速のメキシコ人ドライバーとなっていた彼は、212(n.0239 EU)をイタリアに修理に出したが、ある考えが浮かんだ。モデナに連絡を取り、ブラッコのマシンと同じ250MMの新車を作ってもらうことにしたのだ。

特に1940年代から50年代にかけての南米では、輸入税が高額になる可能性があった。そこでエチェベリアは、新しい250MMのシャシーナンバーを古い212と同じにできないかと相談した。そうすれば、212のアイデンティティを持ったまま車をメキシコに持ち帰ることができ、高額な輸入税を避けることができた。しかし、エチェベリアの250MMのシャシーには、すでにS/N 0352 MMが割り当てられていた。一方、エチェベリアのオリジナルの212インター・ベルリネッタは工場で修理され、1953年にS/N 0292として再販された。

新品のフェラーリ250MMを手に入れたエチェベリアは、メカニックのペドロ・ビレガスを加えて53年のレースに臨んだ。

競争は熾烈を極めた。ランチアは、1953年のカレラに向けて、ファンジオ、タルッフィ、ボネット、ブラッコ、カステロッティの5台の3リッターロードスターを用意していた。イタリアのスポーツマン、フランコ・コルナッキアは、ウンベルト・マリオリ、マリオ・リッチ、ファブリツィオ・マンチーニ、アントニオ・スタニョーリ、ルイジ・キネッティに5台のフェラーリ・ベルリネッタを提供したが、これはファクトリーカーではなかった。また、フィル・ヒルは同じカリフォルニア出身のリッチー・ジンサーとフェラーリを共有していた。

エチェベリアは、世界的な強豪を相手に見事な走りを見せ、トッププライベーターとしてスポーツカークラス7位に入賞した。現在のカラーリングであるゼッケン5を使用した彼は、第1ステージ終了時の13位から、タルボットを駆るルイ・ロジエを抜いて6位にまで順位を上げた。レースはいつものように恐ろしく、危険なものだった。完走者は177人中61人にとどまり、タイヤの破裂、車の横転、大火災などさまざまなアクシデントに見舞われたが、エチェベリアは無傷だった。

オクタン日本版編集部

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