M.M.M. ミニ・ミニ・モールトン PART.1|サー・アレック・イシゴニス

Jack YAMAGUCHI


 
ロードはアレック・イシゴニスの才能に着目した。1999年、ミニ40周年イベントに来日したイシゴニスの右腕、ジャック・ダニエルスはこう語った。「モーリス時代、レナード・ロードの下には、4人の将来を嘱望されたエンジニアがいた。エンジンのトム・ブラウン、ボデイのエド・ボイル、車軸のニック・カウレー、そしてサスペンションのアレック・イシゴニスだ。1年後に3人が去り、結局、イシゴニスだけが残った」

戦前、2次グループで天与の才を認められたイシゴニスだが、同グループ・チーフエンジニアは彼には実戦型補佐が必要と考えた。イシゴニスの生涯の技術右腕、そして晩年の旧知旧友を排した彼の最後を看取ったのがジャック・ダニエルスだ。(BMC )

 
そのロードも、1938年、もともと性格が正反対で軋轢の絶えなかったウィリアム・モーリスと決別し、モーリスの宿敵、ハーバート・オースティンの会社に走る。驚くべきことに、オースティン本拠ロングブリッジ工場の生産・開発部門は、この粗野な男、レナード・ロードを抵抗なく受け入れた。現場型の馬が合ったのだろう。彼は1939年に新型車オースティン8、10、12HPを矢継ぎ早に打ち出し、成功を収めた。
 
ダニエルスは続ける。「ナッフィールドの新技術ディレクターとして着任したウーズレー出身のA. G.オークは、イシゴニスに大いなる可能性を見出した。しかし、経験不足の彼には右腕となる設計エンジニアが必要だとも感じた。オークは、私にイシゴニスと組むよう提案した」と。
 
ジャック・ダニエルスこそ、イシゴニスの天才的発想を図面、製品としてまとめ上げた卓越した設計、実践エンジニアとであった。来日の際、彼自身の言葉で、「どうゆうわけか、イシゴニスと私は、"gelled together"、ゼリーのようにぴったり息が合ったのだ」また、こうもいう。「イシゴニスはインスピレーション啓示型、私はパースピレーション汗かき型なのだ」

DO15発表会でエンジンルームを覗き込むのは、レナード・パーシー・ロードBMC会長。イシゴニスのADO15 、16 、17 の大・中・小プロジェクトの仕掛け人だ。1896年に工業都市、コヴェントリーの庶民の末子で、工業高校から軍需産業で生産技術を習得し、ウーズレイからモーリス/ナッフィールドに移る。モーリスで頭角を現すが、ウィリアム・モーリスと軋轢が絶えず、ライバルのハーバート・オースティンの会社に移る。英産業への貢献から騎士称号、そして爵位を受け、ランブレー男爵となる。(BMC )

 
ダニエルスは15歳にしてMG社最初の有給実習社員として入社した(当時は、技術習得のため、無給年季奉公が普通だった)。彼は名エンジニア、H.N. チャールズの薫陶、指導を受け、設計の才能を発揮する。ダニエルスは、1935年のMG野心作で、SOHCエンジン、Y字形バックボーンフレーム、トーションバー全輪独立サスペンション採用したレーシング・モデル、R タイプの全図面を描いた。
 
第二次世界大戦中、イシゴニスは空挺部隊がパラシュートで落下させる1人乗りカートなどの戦時プロジェクトに専念した。一方、ダニエルスは、ナッフィールド・グループが受注した超大型戦車トータース(亀)のために、32本のトーションバーを用いた複雑なサスペンション設計をした。この戦車は、大き過ぎて実戦には向かなかったという。

ジャック・ダニエルスは、巨大戦車"(亀)"の32本のトーションバーを用いたサスペンションを設計した。6台試作されたが、大きすぎて実戦には使われなかった。

 
1943 年からはイシゴニス・ダニエルス・コンビは、戦後を見据えた小型車計画"モスキート(蚊)"に着手する。戦後のナッヴィールド・グループからのちのBMCに至る長期の大ヒット作、モーリス・マイナーとなるプロジェクトである。


文・写真:山口京一 Words and Images: Jack YAMAGUCHI

文・写真:山口京一 Words and Images: Jack YAMAGUCHI

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