ファッションデザイナーからエキゾチックカービルダーに転身したロバート・ジャンケルの生涯

Octane UK

1976年にTVで見たティレルP34の6輪F1カーに魅了されたロバート・ジャンケルは、同じようなものを公道マシンとして造ろうと心に決めた。自信満々のジャンケルの熱心なイマジネーションのおかげで、1977年10月には彼のパンサー6はもう出来上がっていた。サリー州の小さな作業場で造られたパンサー6は、アールズコートの最初の「モーターフェア」ショーで一番人気となった。

この2シーターのロードスターは、フロントに操舵可の4輪を装備、キャデラック製8.2リッターのツインターボV8エンジンをコクピット後方に載せ、世界中のTVで紹介された。200mphまで出せるといわれていて(実際にはできなかったのだが)、いずれにせよ走行ができたことが凄い。おそらく、実際に販売するつもりはなかっただろう。プロトタイプに装着されたタイヤのトレッドは手彫りで、適切なゴムがなかったことが、たった2台しか造られなかった理由のひとつに違いない。

しかし、購入できそうな1930年代風のスポーツカーである奇抜な世界観のパンサー・リマにスポットライトが当たり、ウェーブリッジ工場での生産が開始された。プラスチック製ボディの、壮麗さのないモーガン、という印象ではあったが… 「6」以外では、パンサーはレトロ感が醍醐味だった。ヴィンテージなスタイルに、電動ウィンドウと6,000マイルごとの整備点検がつく点も人気の要因だった。

1954年にボブ(ロバート)・ジャンケルが最初の1台を製作し、その父親でイーストエンドの服飾店を営むアレクサンダーが、そのオースティンセブンのスペシャル版を公道でテストした。カーエンスージアストのやんちゃ息子はまだ16歳だったからだ。1年後、ジャンケルはロンドンの少数精鋭のセント・ポールズ・スクールへ車で通うことになる。もちろん、自分のデザインした車で通う生徒など今までいなかった。

彼はチェルシー・カレッジでエンジニアリングを学んだ後、車のセールスマンとして適当に仕事をしていた。その時の常連のリピート顧客は、いつも彼の父親だった。最終的に、彼は家業のファッション会社ゴールデンフィールズに入社し、セールスマネージャーとして子供服のデザインを行った。1962年にバンドリーダーのジョー・ロスの娘で、子供の頃からのガールフレンドだったジェニファー・ロスと結婚した。しかし、週末はアマチュアのレースに没頭し、エセックス州のチューニング業者スーパースピード・コンバージョンズのパートナーでもあった。

1970年、ジャンケルはスペインへの家族旅行用にヴィンテージなロールス・ロイスをリノベーションした。その車が非常に好評で、彼は現地の闘牛士へその車を1万ポンドで販売した。その後すぐ、同様の車のリノベーションの依頼が相次ぎ、サイドビジネスとして繁盛するようになる。1971年には服の販売を辞め、自分自身のカスタムメイドの車会社を設立した。名前は「パンサー・ウェストウィンズ」とした。最初の単語は、ジャガーをもじったもので、2つ目の単語は、同社のガレージがあったウェーブリッジの彼の家の名称に由来する。

同社の最初の車は、J72だ。ジャガーSS100の“いかがわしい”リメイクともされるが、信頼性のある近代的なジャガー製エンジンを積んでいる。ジャンケルはサリー州バイフリートの近くに小さな工場を設け、季節的に多数の車職人が働いた。J72が男性向け雑誌『Mayfair』で特集されてからは、パンサーは毎週1台は製造する程に成長した。

ジャンケルのショウマンシップは、その後のたくさんのモデルで人々を魅了した。特にジャガー製V12エンジンを載せた、豪華な1975年のDevilleだ。価格は22,000ポンドもする(ロールス・ロイス シルバーシャドウの2倍だ!)が、オースティン1800 Landcrabのセンター部を流用し、“服装倒錯の”ブガッティといった雰囲気だった。

他の難解なデザインには、トライアンフ・ドロマイトのボディを再構築したパンサー・リオがある。1940年代のフェラーリのオープンカーをイメージし、世界最大のビーチバギーであるパンサー・レーザーとミックスしたものだ。MG ミジェットのドアを流用したパンサー・リマは、1976年に発売された。しかし、1979年まで小規模な製造業者を志していたことが災いし、同年にジャンケルの会社は破産管財人の管理下に置かれた。そして、韓国のコングロマリットに買収されたのだった。

しかしジャンケルは復活した。ル・マルキというトレードマークで、レンジ・ローバーとメルセデスのカスタマイズとストレッチ化にフォーカスした。派手ではあったが、品位があり堅実な造りでもあった。その完璧さから、ロールス・ロイス社が、シルバー・スパーの6ドア版の”正規の”コンバージョンを彼に委託した実績もある。ジャンケルは小さくも独立したブランドにもなり、同様にゴールドラベル(ロールス・ロイス)やテンペスト(コルベット)のロードスターもワンオフで製作した。しかし結果的に、彼と45人のデザインエンジニア達が到達した最も儲かるニッチ商品は、装甲車や軍用の小型パトロールカーだった。

「私たちの秘訣は、私たちが誰に車を売ったかを公表していないことです」、と2001年にジャンケルは言った。その年、彼はパンサーのブランドを買い戻した。しかしその再出発は、2005年に彼が膵臓ガンで亡くなったことで中止となってしまった。彼の作品を好こうが嫌おうが(70年代はカジュアルでヴィンデージなエンスーは好まれなかったのだが)、イギリスの車業界の大胆さは彼とともにあったといえるだろう。


写真解説:1992年、コルベットベースのテンペストとジャンケル。スーパーチャージャー付きV8エンジンで、535馬力のモンスターマシン。0-60mphが3.89秒で、この年のギネス記録となった。

文:Giles Chapman 編集翻訳:オクタン日本版編集部

文:Giles Chapman 編集翻訳:オクタン日本版編集部

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