ブルーノ・サビーが語る、激しく強く、儚く切ないグループBの物語

Peter Singh of Artcurial



しかしながら、肝炎によって彼のキャリアは中断を余儀なくされる。そしてその機会に一時的に針路の変更を試みた。1973年にポール・リカールで開催された伝統のエルフ・ヴォラン・コンペティションで3位入賞、さらに中古のマルティーニMk.14で1975年のフォーミュラ・ルノー選手権に参戦したのである。

「周りは皆、私の車酔いを笑ったものだ。しかし私は真剣だった」とサビーは振り返る。「キャリアのために役に立つと考えてレースに参加した。かなり速かったが、抜きんでるまでにはいかなかった。他の連中は1週間もテストしていたのに、私はレースの前日にマシンを載せたトレーラーを引っ張ってサーキットに到着するといった具合だから、戦闘力の劣ったマシンで同じぐらいのドライバーを打ち負かすことは難しい。ラリーではもう少しドライバーが埋め合わせることができる。私はラリーの即興的な面が大好きで、その世界に戻るためにあらゆる手を尽くした。あのままサーキットに留まったなら、間もなく飽きてしまっていただろうね」

サビーはグルノーブルのルノー・ディーラーであるゴルティエと理解あるタイヤと燃料サプライヤー、そして熱心な友人たちにいわば救われた。1980年にはミドエンジンのルノー5ターボが登場(グループBの歴史ではアウディ・クワトロとともに重要だ)、それがサビーに再び活力を与え、1981年フランス・ラリー選手権をグループ4仕様の5ターボで制覇した。

ブルーノ・サビーはあらゆる仕様のワークス5ターボで戦ったことで知られる。この車はかつてカルロス・サインツが使用したもの。





「あの車はアクロバチックで運転が難しかった」と彼はいう。「私たちは前輪駆動の時代に欲求不満を抱えていたが、再びいつでも、グラベルでなくてもドリフトできるようになった。ドライバーにとっても観客にとっても魅力が一気に増したんだ」

もっとも、新たな不満が露わになった。フランス人はターマックラリーだけが得意という例のものだが、サビーはあえてその慣例を打ち破ろうとした。「1982年のアイボリーコースト・ラリーにルノーで出場した。あの車では無謀な計画だったが、完走車6台中の4位だった。ナイフでジャングルを切り拓きながら進むのはパリ・ダカールラリーのような冒険だった。さらに1984年には1000湖ラリー(現在のラリー・フィンランド)に出場した。これも大きな賭けだったが、私はグラベルでも戦えることをジャン・トッドに見せたかったんだ」

その賭けは当たった。サビーは8位でフィニッシュ、スカンジナビア人以外でトップ10に食い込んだ4人目のドライバーとなり、翌年にはプジョーチームに(ただし主な仕事はテストドライバーだったが)加わることができたのである。

「最後には"ニンジン"があるとしてもイライラが募っていた」とサビー。「私はすべてのテストを担当していた。そういう仕事は大好きだったが、やはり競技者であり、実戦を戦いたかった。スカンジナビアンよりも経験が少ないことは事実だったから、私は喜んでチャンスを待つつもりだった。そのためにもエンジニアたちと開発に全力を尽くしたものだ。時には意見が対立することもあったが、私たちは路上のドラッグスターを作り上げた。中でも最大の収穫はパワーステアリングだと思う」

サビーが2位に入った1985年のコルシカ(T16E2のデビュー戦)の後でその改良型が投入された。「当時のレギュラードライバーはアリ・ヴァタネンとティモ・サロネンだったが、彼らはそれを欲しがらなかった。より太いタイヤと大型の空力付加物、より強力なパワーにもかかわらず、パワーステアリングなしでは疲れるし恐ろしい。私は疲れ果てていたが自分の仕事に満足しており、シャシーデザイナーのアンドレ・ド・コルタンツも喜んでくれた。その後南フランスでテストを行い、あるステージの最速タイムを更新した。その日からパワステはすべての車には装備されるようになった。サロネンは喜んで私にキスしたぐらいだよ」
「それでも、メインチームに加わるのは難しかった。私の限られたプログラムではポイントを獲得することが最優先で、クラッシュもミスも許されない。私はかなり良い成績を残したと思う。トッドもグラベルでの進化を認めてくれて、翌1987年は全戦参戦プログラムを用意してくれることになっていたんだ…」

6月のアクロポリスで3位に入賞したにもかかわらず、サビーは10月のサンレモまで出番がなかった。そしてそこでグループBの最後の日々を傷つける論争に巻き込まれることになる。マシンは豪快で、ドライバーは英雄的だったが、マニュアファクチュアラーはいさかいを止めず、オーガナイザーはうろたえるばかりだった。ラリー3日目になって、事前の車検では問題なかったプジョーのフロア下のフランジが突然違法な空力的なスカートと指摘され、失格となってしまった。その結果ランチアが表彰台を独占、12月のオリンパスでも勝ったマルク・アレンがワールドチャンピオンに決まった。だがその11日後、FISAはサンレモの結果を取り消し、タイトルはプジョーのユハ・カンクネンの手に渡ったのである。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Paul Fearnley Photography: Peter Singh of Artcurial

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