ランチアファン羨望の的、幻のランチアデルタインテグラーレ

Oliver Sold

ランチア・デルタHFインテグラーレについては、これまでにも多くのことが語られてきた。ジウジアーロがデザインしたコンパクトなハッチバック・ファミリーカーが、1987年から92年にかけて世界ラリー選手権で6連覇を達成し、ランチアがラリー界で不動のNo.1になったことは、ランチアファンであれば誰もが知るところだ。



ファミリーカーから生まれたラリー・ウェポン

インテグラーレの総生産台数は4万4296台に達するが、それは4つの段階を経て進化してきた。しかしインテグラーレのサクセスストーリーは、偶然にもラリーの暗黒時代のひとつである1986年に始まった。その頃、ラリーで致命的な事故が相次いだため、FIAは500bhpに達するスーパーカー、グループBを廃止した。そして翌年から、グループA規定での参戦が認められることが明らかになると、ランチアは真っ先にそれに対応し、一見可愛らしさも感じられるハッチバック・ファミリーカーのデルタをベースにした、ホモロゲーションモデルを送り出した。



モナコでデビューしたデルタHF 4WDは、期待通りの性能を発揮し、1987年のモンテカルロ・ラリーでミキ・ビアシオンが操縦し、世界選手権初出場ながら優勝を果した。1988年にポルトガルでデビューした、その発展型のHFインテグラーレでもビアシオンは優勝し、89年のサンレモラリーでは、またもやインテグラーレ16Vで優勝を果たした。1992年のモンテカルロラリーでは、ディディエ・オーリオールが、アジャスタブル・リアスポイラーを装着したデルタ・エボルツィオーネを駆り、世界ラリー選手権初参戦にして見事に優勝し、表彰台の頂点に立つという偉業を成し遂げた。

5度目のラリーコンストラクターズタイトルを、地元イタリアで獲得したことを記念して、ランチアは、限定モデル「デルタHFマルティーニ5」を発表した。このモデルは12種が造られた特別仕様車の最初のモデルであり、最後のモデルには「エディツィオーネ・フィナーレ」という名前が付けられ、ジャイアントキリング・レジェンドの最後を飾ることとなった。



15台だけの“クラブ・イタリア”

この写真に写っている2台のデルタのオーナーは、間違いなく“目利きなデルタラバー”といえるだろう。ディープブルーにペイントされた“クラブ・イタリア”は、15台しか製造されなかった限定車で、さらにヴァイオレットの車体色の“ヴィオラ”は、唯一無二の存在である。両方とも非常に希少な車だ。

ランチアは1991年に、デルタHFインテグラーレ・エボルツィオーネの開発に着手していた。メカニズム的には16Vと同じだが、10bhpアップの207bhpを発揮した。外観上の特徴は、新しいプレスのワイドフェンダーと、ワイドトレッドに対応するための大きなホイールアーチ、新しいボンネット、バンパー、サイドスカート、小径のペアヘッドランプ、改良されたリアドア、リアスポイラーなどである。



ランチアは、元ラリーナビゲーターであり、高級腕時計産業で財をなしたジーノ・マカルーソの提案により、1985年に設立された60人限定の『クラブ・イタリア』のメンバーのために、15台の特別シリーズを製作した。車には01から16までのシリーズ番号(13は省略)が付けられている。マウロ・フォルギエリとクレイ・レガツォーニもメンバーであり、この限定版のオーナーであった。

クラブ・イタリアの特別仕様車は、ランチアのクラシックで貴族的な色合いのブルーロードで塗装された。特徴的なバッジやマーキングは納車時には装着されず、トランクに仕舞われており、新しいオーナーが装着するかどうかを選択できるようになっていた。また、幸運な15人のオーナーは、納車前にトリノのコルソ・マルケに立ち寄り、ワークスのモータースポーツ部門であるアバルトに改造を依頼し、パワーアップを図ることができた。

アバルトでは、エンジンマネジメントの調整、シリンダーヘッドとガスケットの変更、ギアレバーの横に取り付けられた赤い頭のブーストコントロール・ノブの設置などがおこなわれた。このノブを操作して、ターボチャージャーのコントロールバルブを動かすと、ターボの過給圧を標準の1.0バールから約1.2バールにまで高めることができた。これにより、控えめで静かなサウンド維持しながらも、クラブ・イタリアのパワーはさらに25~30bhp増強できた。


編集翻訳:オクタン日本版編集部 Words: Werner Blaettel Photography: Oliver Sold

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