“車をとっかえひっかえ” していた天才コメディアンが愛した車とは?

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ずっと忘れられることもなさそうだが、ピーター・セラーズが演じたコメディのキャラクターたちは、イギリス国民の精神に深く根付いていた。TVが出現する前の時代、彼の作品『ザ・グーン・ショー』に登場する風変わりな登場人物、ブルー・ボトル、 デニス・ブラッドノック大佐、 ヘンリー・クランなどは、厳しい戦後のイギリスで過ごす人々にとって、欠かせない夜のラジオ番組だった。彼のキャラクターの中には、どぎまぎしながらドタバタ喜劇を巻き起こすクルーゾー警部がいた。そのおかげで、1960〜70年の映画、『ピンクパンサー』シリーズの驚異的な成功が続いた。

だが、こういったものは、現代では不快に思われるかもしれない。しかしセラーズは、今も楽しめるコメディ映画の名作シリーズを作り上げた。『I’m All Right, Jack』、『The Battle Of The Sexes』、『Dr. Strangelove』などだ。

セラーズは、1980年、54歳のときに心臓発作で亡くなった。その頃は、苦々しく気難しい彼の個性は既に知られており、4人の妻を含む彼の家族生活は混乱と絶望に満ちていた。そして、中毒の問題から彼のキャリアは破滅に向かっていた。

彼は1960年代に、不可思議な擬態(模写)の技術により、無名の状態からショウビズ界のスターの仲間入りをした。大金が転がり込み、セラーズは車に散財した。その様子は、どの時代のセレブリティとも異なり、きらびやかな金属を食い尽くすかのようだった。彼の自動車における上流生活は、1959年の4月にベントレーS1コンティネンタルが届いてから刺激的になった。セラーズは、その独特なテールフィンを備えたH・J・マリナーによるボデイを崇拝した。それもあり、燦然と輝くリーガルレッドカラーのボディを、息子のマイケルが派手にペイントしたときは、したたか殴った。

彼が元ケーリー・グラントのロールス・ロイス・シルバー・クラウド Iを購入した際に軽いいざこざを経験し、それに飽きた時には『The Times』紙の紙面で「称号付きの車が所有者の売却を望んでいます」と宣伝した。その後、フィックスヘッド・クーペのクラウド III “チャイニーズ・アイ”が届き、1963年までにエキゾチックカーにも手を伸ばした。アストンマーティンDB4GTや、フェラーリ250GTEを所有した。どちらも、彼のコメディ映画『The Wrong Arm Of The Law』に登場している。

【知られざる物語】 ピーター・セラーズと彼が愛したアストンマーティンDB4 GT(Photography: Alex Tapley)

これらとは対照的にミニ・クーパーSも好んだが、飾り気がなさ過ぎると感じ、ロールス・ロイスなどのボディを手掛けるコーチビルダーのフーパー社にカスタマイズを依頼した。レザートリム、ウォールナットのダッシュパネル、ウィルトン・カーペット、パワーウィンドウとサンルーフ、強化ヒーター等が装備された。外観では、グリル内にスポットライトが埋め込まれ、ボディサイドに手描きで籐模様が描かれた。価格は2600ポンドで、それは元のクーパーSの4倍にも達し、1963年5月にセラーズに納められている。

彼はこのミニを非常に愛し、コーチビルダーのハロルド・ラドフォード社にその複製を造らせたほどだった。こちらは、1964年のクルーゾー警部の映画『A Shot In The Dark(邦題:暗闇でドッキリ)』に登場している。彼はこの車をディレクターのブレイク・エドワーズに譲った後、ハロルド・ラドフォードにハッチバック仕様のミニ・デ・ヴィル GTをオーダーし、初々しい花嫁ブリット・エクランドに贈った。彼女は、1965年10月にハロルド・ラドフォードのハマースミス(ロンドン)のショールームで、巨大なフェイクのウェディングケーキの周りをこの車でドライブした。ちなみに、彼女との婚約の際の贈り物も自動車で、ロータス・エランだった。

数日後、二人がロンドン・モーターショーを訪れた際、ブラウンに塗ったフェラーリ500 スーパーファストを持ち込み、それが同車のイギリスでのデビューとなった。その後、彼はその車を熱烈に愛し、「永久に所有するよ」と言った。登録ナンバーは「GYK 5C」だ。「私以外の誰にも運転させたくはない。私の妻に誰にもキスさせたくないのと同じくらいに。もしドーチェスター・ホテルが火事になっても、『ガレージでそのままにしておいてくれ』と頼んである。燃えてしまったら、ガンジス川に灰を撒くのさ」とも語っている。

ピーター・セラーズがソフィア・ローレンよりも愛した!? フェラーリの最高峰モデルとは(Photography: Lies De Mol)

しかし、これほど夢中になっても、車道楽は冷めず、1966年3月にロールス・ロイス・シルバーシャドウの2ドアクーペを注文した。またもや赤色で、当然のように自動車電話付きだ。どうやらセラーズはこの車で、仲間のスパイク・ミリガンに、夜間のロンドンでぶっ飛ばす際にトランク内にいるようにさせたらしい。それでスパイクは一人でなんとかトランクに入り、チョークで印を付けた。

ミリガンはセラーズの車のことを“鉄の下着”と称していた。彼がそれほど頻繁に交換していたからだ。1967年に『AA’s Drive』誌は、彼が85台の車を所有していたこと、そしてその躁病的な強迫性により“車をとっかえひっかえ”していたことを、次のように報じている。
「セラーズ氏は優れた車のエンスージャストだ。ある日ジャガーを所有していたかと思うと、あくる日はボルボ、その次の日はローバーを所有している。そして白のフェラーリ 330GTCは処分してしまった。その理由が、“私は身近な白いものは嫌いだ”と、黒人の革命家のようなアクセントで言い放った。“1週間ほど強い日光の下に放っておいたが、それでも白いままだった。だから売ったよ”と語った」

そうした彼には有能なスタッフが必要だった。セラーズは、リチャード・ウィリアムズ(後にアストンマーティンのスペシャリストRSウィリアムズとして崇拝される)にメンテナンスを依頼し、まだ見習いだった彼と意気投合した。また、レーシングドライバーでディーラを営むトニー・クルックも信頼していた。ある日彼は、ハーシャムにあるクルックのショールームに立ち寄り、ビュイック・リヴィエラから、クルックのディーラーが扱う新型のブリストル407に自ら乗り換えている。

そうしてクルックとも親友となった。セラーズは小さな広告をくまなく探し、ほしい車を見つけると、クルックに小切手帳を預けて交渉させていた。それらは、DB5が数台、Eタイプが数台、スイスで保管されているフェラーリ275GTB/4、そして噂のミウラなどだった。

彼は、メーカーの好みも変わりやすかった。クルックは、「私は24台ほどの車を彼のために購入した」と回想する。「彼のことを意地悪だとかうっとおしいとか思ったことはない。ただ、そばにいるようにしていた。彼は自分の望むものを熟知していたし、望むことをやめることもしなかった」

まとめ:オクタン日本版編集部 文:Giles Chapman

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