映画化もされた人物、うぬぼれ屋で情熱的な「プレストン・タッカー」とは

Octane UK

世界で最もリッチな自動車マーケットで世間の注目の的になると信じた男が、戦後のアメリカにいた。しかし、彼は間違っていた。


アメリカの自動車業界に革命を起こすという、プレストン・タッカーの60年以上にわたる大胆かつ独特な努力は、苦闘の末、失敗に終わった。彼の造る車には眼を見張るような値段が付けられ、ハリウッドが手掛けた有名な伝記映画では、彼の挑戦は偶像化されてきた。そしてたくさんの人々が、野望をくじかれた天才、また真の起業家精神を持った殉教者として崇拝した。「自力で出世した普通の人」という彼のイメージも、彼の評判を傷つけることはなかった。

プレストン・トーマス・タッカーは、1903年にミシガン州の農場に生まれ、経済的にも教育的にも恵まれない環境で育った。彼にとって、自動車業界での初めての仕事はティーンエイジのころで、キャデラック社の事務員だった。1920〜30年代には、主にセールスやマーケティングの分野で、大小の貿易業務を担った。彼は、長身で、社交的で、シャープな着こなしで人々を魅了し、“おべっか使い”で世渡り上手という、典型的なセールスマンタイプであった。南極で製氷機は売れなくても、追加の請負契約は取ってくるというタイプだ。

タッカーにはまた、チャンスを見逃さない才能があった。第二次大戦後、大戦中には抑圧されていた巨大な新車需要があることを、彼は見逃さなかった。1946年に、彼はタッカー・コーポレーションを設立すると、革新的な車の製造に着手した。それは、彼自身が設計に関与した、エアロダイナミクスなスタイルと、安全対策という他に類を見ない高い技術を投入したリアエンジン車だった。



仰々しくも効果的な「Car of Tomorrow, Today (未来の車を、今すぐに)」という宣伝キャンペーンを掲げたうえで、アメリカ政府からシカゴの広大な元防衛設備を借り受け、何百万台もの自動車を生産できる準備を整えた。当初、“タッカー・トーピード (魚雷)”と呼ばれ、のちに“タッカー48”と改名されたこの車は、やむを得ない経済状況により、死にものぐるいで生産化に漕ぎ着けたという状況であった。

ハリー・ミラーを利用したタッカー

プレストンは誰にも好かれる男で、かつ献身的な父親で愛すべき夫でもあった。しかし彼はまた、経験や専門知識よりも決意や自信を本気で重んじるタイプであった。危険人物というよりは、一匹狼のタイプであり、デトロイトのビッグスリーを操る巧妙なトリックのマスターであった。

レーシング・エンジニアとして後世に名を残す、ハリー・ミラーとの付き合いはその典型だ。タッカーはフォードと契約し、1935年インディ500のためにハリー・ミラー設計のミラー・フォードを10台製作した。これは、やつれきっていたミラーを奮い立たせるためにタッカーが企てたパートナーシップの証だった。だが、タッカーの契約にはテスト期間が含まれていなかったことから、熟成せぬまま臨んだレースでは、出走した4台は1台も完走できず、ミラーとフォードに屈辱を与えることとなったが、タッカー自身には目に見えるダメージは一切なかった。

1943年にミラーが亡くなるまで、タッカーは彼の名声に便乗し続けた。それには米海軍パトロール魚雷艇(PTボート)用エンジンの製作方法も含まれていたが、軍の古い機械工場の製造情報が含まれていると海軍の検査官が判断したことから抹消された。航空機のエンジンの計画についても同様な結果となったが、噂によるとこれもプレストン・タッカーには、いつものように多大な利益をもたらされたという。さらに、長年にわたって思惑されていることだが、“タッカー・トーピード”の設計で最も優れた箇所は、ハリー・ミラーによって考案されたとされている。

その頃、証券取引委員会 (SEC)が、不正な資金調達がおこなわれたとしてタッカーを告発し、会社の閉鎖を命じた。これに対して、プレストン・タッカーは、“タッカー48”が革新的であるがゆえに、既存の自動車業界を守るため、デトロイト市と政府による陰謀の容疑であると主張した。1950年には彼は勝訴したが、すでに危険な状況にあった彼の財政状態は破綻した。

終焉のとき

その告発以前に、タッカーは自身の自動車会社について類似の判断を表明していた。全面的な管理権を失うことを恐れた彼は、融資を控えたが、証券取引委員会からは、たびたび調査が入った。彼はまた、政府に対する工場の賃貸料の支払いを怠りながらも、まったくの思いつきでしかないような広告を出し続けた。タッカーが起訴されたのも不思議ではない。短すぎる棒でスズメバチの巣をつつくような行動に彼は固執し、病的な状態になっていった。

デトロイトではプレストンの失脚が予想されていたが、彼はうぬぼれていたようだった。実際、デトロイトには彼の友人はほとんどいなかったが、末期的な資本不足に陥っているようには見えなかった。また、価値の不明な商品と成功未経験の経営者を抱えながら、拡大し過ぎたこのスタートアップ企業は、世界最大の自動車会社らを刺激したことで、普通の会社以上に目をつけられていたと思われる。

タッカー・コーポレーションは破産し、オリジナルのプロトタイプ1台を含む、たった51台のみが製造された。プレストン・タッカーは再起を誓い、ブラジルに渡って起業したが、1956年に肺ガンに倒れ、夢半ばにして53歳でこの世を去った。彼が思い描いた最後の夢は、今も製図板上に残されて描かれている。

かわいそうなタッカーがプレッシャーに苦しんだといった内容では、よい物語になるだろう。実際には、彼はショウの始まりからステージの端っこで踊っていたようなものだ。そして遅かれ早かれ、いつも最後に音楽は止まるのだ。


編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Words: Dale Drinnon

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Words: Dale Drinnon

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